管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

コミュニケーションの鉱脈について

しばらく更新が途切れていたじゃないか。さては飽きたか。


そうだ、飽きた。


でも別に構わないだろう。ちょっと飽きが来たくらいで更新が止んだって。


どうせ誰も待ってないんだから。


おれが書くのを待ってるのは、いまのところおれひとりだけだ。

 

 

 


昨日、それなりに付き合いの長い友人Rと一緒に六本木のバーに足を運んだ。あまり気取っていない、立ち飲み形式のカジュアルな店だった。


そこで、店員のお姉さんとそこそこ話をした。いや、嘘をついた。実際は友人Rが積極的に声をかけていたところに、おれがぼそぼそと口を挟んでいただけだ。


友人Rはとても社交的な男だ。言語産出から発話までの速度が早いし、他人に嫌われることを気にしていない。おれみたいに、陰口の噂を耳にしただけで不安の海に溺れてしまうような人間とは違う。おまけに好奇心も旺盛だから、興味にある場所があればすぐ向かい、興味のある人間がいればすぐ接触する。当然、交遊関係はおれとは比べ物にならないくらい広い。そんな彼が羨ましいか? どうだろうな。よくわからない。羨ましいといえば羨ましいし、べつに羨ましくないといえば、べつに羨ましくない。違う言い方をすれば、彼には一種のリスペクトを抱いているものの、彼のようになりたいとは思っていない。おれはおれで、彼は彼だ。まあ、自分から観た他人なんてものは、誰にだってそんなものだろう。おれは特別な人間なんかじゃない。何度も言い聞かせている。

 

友人Rの話が長くなってしまったが、まあとにかく、彼のほうからお姉さんに話しかけて、それからしばらく海外旅行の思い出話などが続いていた。正直、あまりにも話題に他愛がなさすぎて、横でお追従的相づちを打っているのがひどく苦痛だった。ごめんな。

 

終わらぬ会話、おれの不馴れな愛想笑い。酒のうまさは分からない。

 

やがておれは、痺れを切らして「もう行かないか」と切り出そうとした。その時だった。お姉さんの口から「かつて劇団にいた」という一文が発せられたのは。


おれは友人Rへのエスケープ要求を引っ込めて、お姉さんの話を聞いた。

 

そこからの会話は、混じりけなしに楽しかった。特別すごいエピソードがあったわけではない。でも、関心のない話題には少しも口を開けないおれにとって、相手との会話の 共有域を見出だせることは中々代え難い体験だ。おれひとりだったらこうはならなかった。そもそも、自分から他人に声をかけることもできなかっただろう。友人R、ありがとう。

 

コミュニケーションは、掘り進めるものだ。地中に眠る宝物のように、自分の欲しかったものがはじめから顔を出しているわけではない。まずは「えい」と、スコップを地面に指さなければ何も始まらない。そしてその先の発掘作業だって、地味で地道な時間を強いられる可能性さえある。延々と続く、味気のない表土。スコップを引っ込めざるを得ない、堅固な岩盤。根気よく掘り進めても、結局なにも得られないかもしれない。それでも、思わぬところに鉱脈を見つけ、より豊かなコミュニケーションの実りを体感できることもある。あるいは、噴き上がる温泉を堀り当てて、話し相手本人も知らなかったイメージや感情を顕現させることさえも。地中には、どこに何が待っているのか誰にも分からない。この人はどんなふうに育ったのだろう。何を胸に生きてきたのだろう。何を好み、何をよろこびとするのだろう。もちろん一方的にではなく、暗黙の合意とともに、相互的に相手に入っていく。そこには、下卑た打算などない。かなり理想的になってしまったが、それはつまり、宝物を探すために掘るのではなく、掘ることそのものが価値なのだ。友人Rは、体験的にそれを学んでいたのだろう。本人にこれ言ったら「は?」とか言われそうだけど。でも、それでもだよ。おれはやっぱりおまえをすごいと思ってるよ。

 

 

おれはまだ、スコップを握っていない、ただ地面を眺めているだけの男。

午前2時のシーブリーム

都内某所の、ある安ホテルに宿泊した。

 

一応都心に位置しているはずなんだけど、設備といい宿泊客といい、ここは東南アジアかと見紛うほどの「二線級ぽさ」で満ち溢れている。

 

隣室のいびきがクリアに伝わってくるベニヤ壁。何かの暗示にでもかけるつもりなのかと身構えてしまう、壁紙の過剰な花柄。刑務所みたいに陰気臭い共同浴場。ネズミの集会場にでもなっていそうな清潔さの共同トイレ。浅黒い肌の外国人ばかりがいるロビー。ペラペラのシャツでそのへんをうろついているフロント係のおっちゃん(はじめは客かと思っていた)。単なる案内であるはずなのに、やたら威圧的な明朝体

 

とはいえ、これくらいのレベルの「二線級ぽさ」なんて特に目を見張るほどのものではないし、一度寝泊まりすればすぐに慣れる。なんなら少し気に入っているくらいだ。

 

しかしながら、それでも見過ごすには惜しいモヤモヤスポットが、このホテルにはある。

知恵の輪だ。

 

待ち合わせの際の暇潰し用かなにかで置かれているのだろう。よくあるパターンだ。ただ、規模というか、このホテルの知恵の輪に対する腰の入れ方が少しおかしい。


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なぜコーナーが特設されている?

 

ひとつやふたつだけなら特段気に留めるほどではないが、わざわざご丁寧に難易度別に22個もの知恵の輪を用意し、コーナー専用イスまで拵えてある。宿泊客がここにじっくり腰を据えて、ウンウンと頭を捻らせながら輪を外す光景でも見たいのだろうか。そんな光景見たいのか? でも「5,000yen if you can do all」とか書いてあるし、ちゃんとチャレンジしてほしいのかな、このホテルのオーナーは。

 

でもせっかくだから、ちょっと遊んでみよう。あの専用イスは恥ずかしいから、少し離れたところにあるソファーで。

 


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なるほど、低難易度のやつを選んだからものの数分で解けたけど、輪を外した瞬間の「あっけなさ」は何だか不思議な脱力感を覚える。ぐらぐらと揺れて授業中にも食事中 にもとことん鬱陶しかった乳歯が、風呂上がりのふとした瞬間に静かに抜け落ちていくあの感覚みたいだ。「あっ、取れた・・・・・・」って。

 

途方もない努力にうんざりし、絶妙に力と意識が抜けてきたところで不意に達成される目的。人生なんてこんなもんかもしれない、とかいう手垢まみれの定型句は、言おうと思えば何にでも言えてしまう。けれども、つい言いたくなってしまうものだ。

 

人生なんてこんなもんかもしれない。

 

それにしても、幾何学的な形状の知恵の輪において、生物を模しているデザインには独特の魅力がある。これなんか、二匹の魚が互いに輪として繋がっていてカッコイイ。夢の原型イメージにこんなものがありそうだ。


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だれでもいいから、ユングに詳しいひと、カモン。

 

「お呼びかな?」

 

背後から急に声がして、おれは驚いた。

 

振り向くとそこには……

 

 

 

 

 

ということにはならなかった。

 

午前2時のロビーには誰もいない。

 

ところでこの魚型のパズルは『シーブリーム』というらしいけど、それを知ったところで、おれの夜中の咳は止まったりなんかしないのだ。

 

ごほごほ。

 

 

そして『恋する惑星』に二度恋をした。

このブログを立ち上げた当初から、そのうち『恋する惑星』について書きたいと思っていた。


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おれの大好きな映画だ。

 

でも、大好きな映画であるはずなのに、いざ書こうとWordを立ち上げてみても、なかなか文章の道筋が見えてこない。『恋する惑星』という作品自体、映画の構造上ややこしい部分を含んでいることもあるのだが、それにかかわらず、おれは映画の話が出来ない。実際、当ブログではこれまでに映画に関する記事をアップしたこともあったが、映画の内容にはほぼ触れていない。

 

というか、具体的な内容に踏み込みながら話を進めていくのが苦手なのだ。

 

それはたぶん、おれが映画を捉えようとしたとき、いきなり全体を網羅しようとしているからなのだろう。映画に限らず、あらゆる『作品』と呼ばれるものに対して、全てがわかる、あるいは、すべてを語れると思ったためしはない。どんなに繰り返し触れた作品にだって、程度の差こそあれ、いまいち釈然としない部分を感じている。それはもちろんおれの理解力の貧しさが第一の原因なのだが、人間のつくったものを人間が受け止める以上、解釈における『余白』は必然的に生まれてしまう領域なのではないか、とも思っている。

 

そして、おれはその『余白』をも十把一絡げにして語ろうとしてしまうから、どこかで言葉が詰まってしまい、文章がまごつくのだろう。それが怖かったから、映画の話が出来なかったのだ。たぶん。

 

よって、以上の問題を克服するための試みとして、まずは森ではなく木を見てみたいと思う。いきなり森を鳥瞰しても、なんだか緑色でモサッとした土地にしか見えない。だが、一本の個体レベルから地道に観察していけば、樹木の種類や生体が把握できるし、周辺に生息する生き物たちとの関係性も捉えることで、いきなり全体を見下ろす以上に『生きている森』としてのイメージが鮮明になるはずである。面ではなく、点を捕まえる。

 

さて、自分でもびっくりするくらい前置きが長くなったが、面ではなく点で『恋する惑星』について、おれなりに書いてみようと思う(なんだかリハビリみたいだな)。

 

恋する惑星』におけるおれにとっての点とは、やはり第二部に登場するフェイ(フェイ・ウォン)である。やはり、である。しょうがないよ。一番書きたいんだから。

 


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フェイは、この映画において最も強い干渉力を持っている。それは、彼女が登場人物の中でただ一人「存在を上書きする役割」を与えられているからである。と、なんだか定義づけっぽいことをしてしまったが、このフェイという女性、劇中でなかなか怖いことをしまくる。

 

詳しく書く。

 

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テイクアウト型の軽食店(Midnight Express)で働き始めたフェイは、客として訪れた警官663号(トニー・レオン)に恋をする。663号には登場時、キャビンアテンダントの恋人がいた。しかし、店に何度か通っているうちに別れてしまい、そのことを軽食店の店主に告げる。後日、663号の元恋人が店に現れ、663号への手紙と部屋の合鍵を店主に預けるのだが、あっという間に店員たちに回し読みをされた末、フェイの手元に渡ることになる。

 

言葉を交わすうちに友人関係になっていくフェイと663号。しかし663号は失恋の痛みを引きずっているらしく、フェイの存在は特に意識していないようだった。

 

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さて、ここからフェイの最大の魅力でありぶっ飛びポイントが遺憾なく発揮されていく。

 

663号の心の中で、未だ元恋人の存在が強く占められていることを察したフェイは、663号の不在を見計らい、合鍵を用いて彼の部屋の模様替えを始める。「いや完全に不法侵入やんけ!」と当時は思ったものだが、今でも変わらず思っている。

 

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「いや完全に不法侵入やんけ!」

 

でもおれがこの映画にやられてしまったのは、この不法侵入および無断模様替えシーンが、なんともポップかつ爽やかに演出されているところにある。

 

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窓から白く差し込む光。そしてお馴染みの『夢中人』をバックにして、663号の部屋、つまり元恋人の面影を塗り替えていくフェイの姿は本当に無垢だ。ヨリを戻す気になった元恋人の留守電メッセージを削除するシーンなどはいかにも女の業全開の行為なのに、ぜんぜん「業」っぽく見えない。むしろ、この映画全体を通してフェイの「業」はいつも楽しい。

 

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そして隙あらば強調されるケツ。

  

663号も663号で、部屋の変化への気づきがあまりにも遅い。喪失感で呆然としてしまっているからか部屋模様へ一切関心を向けず、玄関でフェイと出くわしてからようやく周囲の変わりようを認識しはじめる。石鹸がひとりでにでかくなるわけないだろう。「今ごろ気づいたんかい!」と当時は思ったものだが、今でも変わらず思っている。

 

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「今ごろ気づいたんかい!」

 

とまあ、フェイも663号も、二人して色々と常人離れしている感性の持ち主だ。いざフェイが663号の家で本人に見つかっても、ひっぱたかれたり警察に通報されるどころか(というか663号自身が警官なんだけど)、つった足をマッサージしてもらい一緒に昼寝までしちゃう。

 

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どこかの感想ブログに、かなり否定的なニュアンスで「この人たちは生きた人間なのでしょうか」みたいなことを書かれていた。まあ確かに、フェイと663号含めたこの映画の主要人物たちは、ふつうの人には届かないレベルの思考回路を持っていたりする。でもおれが思うのは、登場人物の持つ「ぶっ飛んだ感性」は、同じく登場人物の持つ「生のリアリティ」を損なう要因には決してならない、ということだ。

 

つまりこうだ。

 

フェイも663号も、物語を通して抱いている感情(あるいは欲望)そのものはいたってシンプルで、我々のような凡夫にも十分身近かつ共感しうる距離に流れている。

フェイは、男に恋をして、どうにか自分を見てもらいたく、前の女のことなどさっさと忘れて欲しいと願っている。663号は、最初こそ失恋の痛みを引きずっているが、ある女の熱心な(病的な)アプローチを受け続けて、次の恋を見つける。

 

実際、誰にだってあることである。

 

よく、フェイはストーカーだと言われる(ほんとにストーカーなんだけど)。ウォン・カーウァイの演出がなければ、ただの凡庸な猟奇サスペンス(ふうのラブコメ)になっていたかもしれない。

 

倫理の籠から解き放たれた感情を肯定してしまうことは、フィクションだけが持つ魔力だ。もちろん決して、反倫理であることがフィクションだ、とまでは言わない。ただ、人間の感情に(本当ならば)誰しも抱いている、倫理や常識に干渉されないアンコントロールなエネルギーを、物語以外にいったい誰が語れるのだろうか。あるいは、世間や社会に目を向けられない(目を逸らされる)、人間の心の奥の限りなくパーソナルな領域を、物語以外にいったい誰が見つけてくれるのだろうか。

 

話がでかく抽象的なってきたので、再びストーリーに触れながら話を進める。別に新しい映画でもないので、ネタバレとかは一切気にしない。

 

ようやくフェイに心を向け始めた663号は、彼女をバー『カリフォルニア』に誘う。歓喜に舞うフェイだが、結局『カリフォルニア』には姿を見せず、663号はひとり待ちぼうけを食う。実はフェイは、一度店に訪れたものの、663号とは会わず本物のカリフォルニアへ旅立ってしまったのだ。映画を見たひとの大半は、たぶんここで「なんで?」と思う。おれも思った。

 

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フェイは、この物語において、終始徹底して「夢見るひと」である。夢と現実の区別がついていなさそうなところさえある。そして「行為のひと」でもある。「行為のひと」という点においては、これまで一切触れてこなかったが第一部に登場する警官223号(金城武)とかなり対称的だ。223号は言葉を中心にアプローチを仕掛け、劇中のモノローグも多く、自身の感情や行為についてかなり饒舌である。まるで独り言と一緒に生きているような印象さえ受ける。

 

対してフェイは、663号に面と向かっている時はさほど言葉を語らない。シャイな性格、ということなのだろうが、内在しているエネルギーの総量はかなりのもので、とにかくアクションで訴える。さらにモノローグも少ないせいか、観客に対しても非説明的だ。

 

そして先ほども述べたように、何よりも「夢見るひと」であることを貫いている。驚くほどの行動力とも相まってか、「超活動的夢想家」と言い表してもいいかもしれない。実際、店のカウンターでうたた寝をはじめた直後に663号の部屋に忍び込むカットが映されたりと、見ているこっちも夢か現実かよくわからない。本人のモノローグからも「永遠に覚めない夢だってある」と語られ、完全に夢と現実の狭間の住人として生きている。むしろフェイにとっては、現実こそが夢であるのかもしれない。

 

話を再びストーリーに戻す。バー『カリフォルニア』で取り残されてしまった663号は、フェイの店の店主からフェイの手紙を渡され、彼女が本物のカリフォルニアへ飛び立ったことを知らされる。手紙の内容は、手書きの搭乗券であった。しかし雨に濡れてしまい、行き先が読めない。それから一年後、二人は再開する。663号はかつてフェイが働いていた軽食店の新たな店主となり、フェイは、663号の元恋人の職業であるキャビンアテンダントになっていた。663号は、一年前の搭乗券をフェイに見せ、滲んで読めなくなった行き先を訊ねる。そこでフェイは新たな搭乗券を書きはじめ、「どこにいきたいの?」と問い返す。そして663号は答えた。「君の行きたいところへ」。

 

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という具合で、映画は終わる。

 

ものすごくスマートにエンドロールへと移行するのでつい流してしまいそうだが、フェイがなぜ663号との約束をすっぽかして本当のカリフォルニアへと行ってしまったのか、その理由は本人の口からは語られないし、663号も問いただしたりなんてしない。

 

この点に関しては、いくつかの考察ができるだろう。フェイがあえて期間を開けてキャビンアテンダントへとなることで、663号の中に残されていた元恋人の存在を完全に「上書き」するためだったとか、フェイの中には元々理想としてのセルフイメージ(職業や髪型など)が抱かれており、663号の心変わりを完了させた上で理想像となった自分を向かい合わせたかった、とか。

 

まあ解釈は映画を観た人間の数だけあって然るべきだし(べきは言い過ぎか)、『恋する惑星』自体が解釈の余地で満たされているような映画なので、躍起になって答えを捜す必要はないと思う。

 

ただ確実そうなのは、フェイは物語の終盤、観客にも見せない何らかの「夢」を見てカリフォルニアへ飛んだということだろう。劇中しつこいくらいに流れる『California Dreamin’』が示している、何らかの「夢」。そして何度も登場する、モチーフとしての「飛行機」。フェイが目指している場所は常に「ここではないどこか」であり、彼女を夢へと連れていってくれる乗り物こそが「恋」であったのだ。

 

・・・・・・話をドタバタとまとめはじめたということは、書くことが自分でもわからなくなってきたということである。とはいえ、この記事を書く上での当初の問いが「おれは映画について何かを書けるか?」であったから、とりあえずこれを「書けた」ということにして、自分で満足してればいいんじゃないですか? かなりグダグダだったけど。

 

それと、映画の話はまたいつか気が向いたらしようと思う。というか、また『恋する惑星』のことを書くかもしれない。というのも、これだけ長文になっておきながら第一部についてはほぼノータッチだったからだ。当然、第一部の金城武とブリジット・リンも大好きである。

 

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もう忘れたけど、この記事の冒頭で「生きてる森」とか「点で捉える云々」とか言ってたな。なんだったんだあれは。

 


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終わりと始まりが溶け合う車両

新宿。

 

ある知人と一緒にカラオケで一晩歌い明かす予定でいたのだが、もろもろの事情があり、キャンセルになってしまった。

 

夜の雑踏に取り残されたおれは、結局そのままひとりカラオケ店に入った。

 

でも、特段歌いたかったわけではない。きっと何かを埋め合わせたかったのだろう。

 

なのでおれは好きな曲を適当に歌ったあと、すぐにソファーで横になって眠った。

 

とっとと家に帰ればよかったのに。

 

そんなわけで、会計時の後悔をなるべく忘れようと努めながら、おれは始発電車で帰ることにした。

 

始発の車両は好きだ。だるそうな奴と死にそうな奴しかいない。始まりの憂鬱と、終わりの空虚さが丁度いいバランスで溶け合う心地よさを感じる。この二つでカクテルでも作ればいいんじゃないか。憂鬱と空虚を、赤い眼で飲み干す6号車。

 

一日の生き死に。

 

顎を触ったら、見知らぬにきびが出来ていた。

 

 

自意識びんびん読書生活

自分のスマホには「青空文庫」のアプリがインストールしてある。

 

メインの読書媒体ではないものの、職場の休憩時間などでちょっとした作品を読むのに助かっている。

 

おれは「仕事の時間」から一歩でも外れた瞬間から嬉々として殻に閉じこもるタチの人間なので、大抵はイヤホンで音楽を聴きながら何かを読んでいる。

 

では、なぜ文庫本なりの紙書籍を手にしないのか?

 

理由は至極単純で、近くにいる誰かから「何読んでんの?」と構われるのが鬱陶しいからだ。

 

でも実際そんなことは殆んど起こらないので、ただの自意識過剰a.k.a.ナルシシズムである。ふつうは、友達でもない職場の人間が本を読んでいたところで、特に興味も感慨もない。

 

とはいえ、魅力的な女の子から「ねえ何読んでるの?」と覗き込まれでもした日には、顔面ゆるゆるで本の話をするんだろうなあ。

 

あれ?そんな可能性を保持していたいのなら、むしろ紙の本をこれ見よがしに読んでいた方が良い?

 

とまあ、自分と本の世界に入り込んでいるはずの読書行為ですら、おれは他人の目をビンビンに意識しているわけである。

 

まったく。

 

 

あの日の『社会は厳しいぞ』おじさんへ。

今でこそ定職に就かずフラフラとバイト生活を続けているが、これでも、新卒の時にはいちおう真面目に就職をした。

 

某テレビ局で、回線技術の仕事をしていた。業務内容を仔細に説明しようとするとあまりにも面倒なので書かないが、ごく簡単に言うと、電波を扱うためにヘンテコな機械を日々いじっていたのである。

 

内定をもらった頃には「そうかあ、おれがテレビ局勤務かあ」と、いかにも新卒らしく胸を期待で満たしていたのだが、結局、半年足らずで辞めた。

 

どんなにそれらしく理由を連ねたところで、言い訳がましさからは逃れられないだろう。別にたいしたことなんて何もない。無菌室で育ってしまった、ごくありふれた若者のごくありふれた挫折。OK、余裕。

 

当時おれの教育係だった上司は、しきりに『社会の厳しさ』のようなことを口にしていた。

 

おれは今でも、『社会』も『厳しさ』もいったい何なのかが分からない。ただ感じ取っていたのは、周囲の人たちの怖さと冷たさだけである。それは、おれが今まで『厳しさ』だと思っていた経験とはあまりにも解離していた。これが大人という生き物なのか。あるいは、これが組織という巨大密室なのか。そういえば、その部署への配属が決定した際、本部の社員に「あそこは陰湿だよ」とボソリと言われたことを思い出した。

 

厳しいのは社会なんかじゃない。あなたたちでしょう。

 

なんだか他責的になってきた。大人の好きそうな『今時の若者』だ。それでもなお、おれはやっぱり言いたい。

 

社会で生きること。それは少なくとも、目の前にぶら下げられたニンジンを追うことではない。

 

 

それにしても、おれはいつまで18歳でいるんだろうか?

 

ベトナム人と夢見る洗い場

冷凍ピザの工場で働いている。

 

今日、その工場の洗い場で、鼻歌を歌いながら仕事をしていた。モップスの『たどりついたらいつも雨ふり』だ。鼻歌に意識をとらわれ過ぎて、うっかり容器に入った水を自分にぶっかけてしまったが、特に苛立ちもしなかったし、隣にいたベトナム人の女の子も笑ってくれた。

 

 

ああここもやっぱりどしゃ降りさ

 

 

うちの工場では、鼻歌がよく聞こえる。歌っているのは決まって外国人たちだ。うるさい社員の目が届かなくなると、すぐにメロディーが聞こえてくる。彼らは本当によく歌う。自分の国の歌も、日本の歌も歌う。仕事中だというのに、彼らの心はゆったりと温泉に浸かっているのではなかろうか。

 

当たり前の話だけれど、鼻歌は楽しい。単調な作業が苦でなくなるし、同僚への愛想も良くなる。それに、徹底した非人間的効率主義への抗体にもなる。機械的動作の強要に対する唯一にして最後の抵抗。人間の仕事がどれだけオートメーション化されようとも、機械に鼻歌は歌えまい。

 

そこで、ふと思う。

 

鼻歌を歌いながら仕事をしない人間の身体は、すでに機械と化しているのではないか?

 

試しに、工場で一番効率的に仕事をこなせる人の腕を思いっきり引っ張ってみようか。そしたら、腕がちぎれて、赤やら青やらの配線がぶちぶちと剥き出しになるかもしれない。するとそいつは「そうか。見てしまったか。でも怖がることはないよ。もうじきおまえも我々の仲間になるのだからね」とか言って、他の機械人間と共におれを取り囲むのだ。そう、既にこの工場の殆んどの人間が機械化されていた。

 

おれは窮地に立たさせるが、その時、洗い場のベトナム人の女の子に助けられる。彼女が鼻歌を歌うと、機械人間たちはたちまち悶え苦しみ、後退りしていった。彼女は知っていた。機械人間の身体に対して、鼻歌から出る特殊な波長が有効なダメージを与えられるということを。

 

なんとか命からがら逃げおおせたおれたちは、まだ機械化されていない人々と共にレジスタンスを結成する。鼻歌をただ一つの武器として。

 

こうして、おれたち純人間連合による鼻歌独立戦争が始まった。

 


ザ・モップス 「たどり着いたらいつも雨降り」 YouTube - YouTube