管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

出来損ないの兄弟を捜して

まどろっこしさの回避のために本題をド頭に配置するが、今回も、過去なんやかんやあってフォルダの片隅に押し込められていた文章を供養してやりたいと思う。正直供養というよりは、最後の審判のために墓場から叩き起したみたいだけど。

 

 

まあ、地獄の業火に灼かれるような悪事は働いていないので、べつにいいか。とはいえ永遠の命もそれはそれで嫌だろうな。

 


ちなみにこの文章は今から半年ほど前に書かれた。

 


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『出来損ないの兄弟を捜して』

これを書き始めるつい先ほどに、親知らずを抜いてきた。左上の一番奥である。親知らずを抜くのはこれで二度目。最初の抜歯は19か20歳の頃で、左下に生えていたものであった。つまり、今回抜いた歯と対になる歯だったというわけだ。



最初に抜いた親知らずは、真っ直ぐ生えず斜めに頭を出してしまい、隣の歯を圧迫していた。頭を押し付けられていた歯も、とんだ迷惑な隣人と思っていただろう。

 

 

ちなみに当時の私は親知らずを4本オールセットで持っており、先に述べたへそ曲がり以外の3本は医者に感心されるほど綺麗に生え揃っていた。これでも小学生の時の全校集会で、歯の健康さを称えるよく分からない賞状を授与した経験がある。それくらい歯に関しては優良児だったのだ。ちなみに私が何らかの賞を受賞したのは、今のところそれが最後だ。

 


閑話休題。そんな厄介なへそ曲がりを抜いて(抜歯というより工事に近かった)カワイの歯の国に平和が訪れたものの、それはひとときの静寂でしかなかった。

 


それから数年が経ってはっきりと認識できるようになったのだが、出来損ないが去った空席の上にいる、一人取り残された対の歯が突然伸びてきたのだ。舌先で触ればよく分かる、たとえではなく実際に頭ひとつ抜きん出た存在となっていた。それを見た歯科衛生士さんは(その時私は別件の虫歯で歯科に通っていた。あの賞状も泣いているに違いない)、こんなことを説明してくれた。

 


歯とは本来噛み合ってこそ機能する。つまり、食べ物を噛み切る、すり潰すためには上下一対の歯が必要だ。一本では何も出来ない。当たり前の話である。ところが今回の私のケースのように、片割れを失ってしまった歯は、自身に噛み合う歯を求めて伸び続けるそうだ。放置をしておくと、行き止まりの歯茎にまで達してしまい、肉を傷つける恐れがあるという。

 


今日抜いた歯は、生まれ備えた形質や生えた方向に何ら問題はなかった。ただ親を知らず、たった一人の兄弟も早々に失ってしまったというだけだ。それでも生来自らに与えられた機能を果たすために、今やいない兄弟を捜してしまったのだ。それゆえ、私の口内においてイレギュラーな存在となり、かつての優等生があの「厄介者」と同じ道を辿った。

 


抜歯の瞬間は、麻酔が十分に効いているから感覚がほとんどない。それでも一瞬、ツンと刺すような痛みを覚え、その直後に摘出されてゆく歯を見た。たとえ隣人に迷惑をかける鼻つまみ者でも、それを必要としていた兄弟がいた。その痛みは、私が生涯の中で聞き取れる、取り残されたあの片割れの最初で最後の声だったのかもしれない。

 


今この段落を書いている時点で、抜歯から6時間は経過した。取り残された片割れのいた場所にはぽっかりと穴が残され、血の塊が溜まりつつある。やがてその穴はゆっくりと確実に塞がり、はじめから何も存在していなかったように血肉で埋め固められるだろう。そうして、あの時の痛みの残響も、少しずつ遠ざかってゆく。

 

 

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ざっと読み返してみて、「キモっ」と思った。なぜここまで親知らずを過剰なまでに擬人化しようとしたのか分からない。背伸びして気の利いた文を書きたかったのか、あるいは本当にあの親知らずに思い入れがあったのか。たぶん前者だろうな。『閑話休題』とか、ただ使いたかっただけに違いない。

 


それでもおれは、今後自分の文章を書く度にこんなものを仕上げていくのだろう。過去の自分に対してはわりと嘲笑的な眼差しを向けるくせに、今現在の自分が気取ることに関しては何の抵抗もない。高校時代、同じクラスのある奴に「スカしてんなよ」みたいなことを言われたが、たぶんそいつは、今のおれを見ても「スカしてんなよ」と思うはずだ。

 


でも許してくれ。書きたいんだから。それに自分のナルシシズムをいくらか自覚しているだけでも、無自覚な奴よりは多少キモくないはずだ。

 


そうしておれは、親知らずのことなんかすっかり忘れてエスカレーター脇の鏡をチラ見する。