管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

ヘミングウェイに挨拶だけして帰る

例外の時期はあれど、基本的に、あまり勉強が出来ない子だった。

 

大まかな成績分布で言えば、中の下くらい。何かが飛びぬけて優秀だったぶん、他のどこかの領域が壊滅的だったというわけでもなく、ただ、全体的に「ぼんやりと」低成績だった。要するに、メリハリも無く、ここぞというときにエンジンもかからないタイプの無気力に由来するものだったのだろう。

 

そんなおれが、三省堂の洋書コーナーでヘミングウェイの「老人と海」(原文)を立ち読みしてみて「なんかいけるかも」と思ってしまった。「擬似関係代名詞」とか「仮定法過去完了」とか言われても頭の上に疑問符が3つくらい浮かび上がるだけのおれが、適当に開いたページを読んでみて、「なんかいけるかも」と思ってしまった。横に辞書を置き、時間をかけて、ゆっくりと噛み締めるようにページを繰っていけば、一冊読み通せるのではないか? けっこう薄いし。

 

でも、結局買わなかった。やっぱり読まないだろうな、と躊躇ってしまったからだ。

 

いまのおれの本棚には、洋書に限らず、先のような「なんかいけるかも」と思い買ったは良いが、冒頭にしおりが挟まったまま(あるいは全く読まれないまま)眠っている本がかなりある。実数は分からないけれど、たぶん、10冊あれば3~4冊はまともに読まれていない。半年前にブックオフで買ったイギリスの古典小説とか、二年前に紀伊国屋で買った、大日本帝国の植民地言語政策について書かれた本とか、いつどこで買ったのかも覚えていない、仏教思想と日本文学の関連性について書かれた本とか、その他もろもろ。

 

その中には、すっかり諦めて売ってしまうものもあれば、「いつかまた読む日が来るかもしれない」と、未練タラタラで本棚で腐らせてしまうものもある(時折目に入ってくる背表紙が催促の視線のように思えて少し気まずい)。読書という行為をあえて費用対効果の観点で捕らえるのならば、おれはたいへん損をしているに違いない。

 

では、なぜそんな読めないかもしれない本など買ってしまうのかと問われれば、正直、答えに窮する。

 

強いて言えば、健全な好奇心と、いくらかの背伸びと、知性や教養へのコンプレックスが、その場その場で異なった割合で胸に混ざり、ある種のエネルギーとなって湧き上がるのかもしれない。もしくは、読みきれないと分かっていても、おれの中のどこか(深層意識とか?)にあるレーダーが勝手に感知して、手が勝手に伸びてしまうのかもしれない。

 

どちらにせよ、新品中古問わず、読みもしない本を恒常的に買い続けてしまうのは財布にやさしくない。というか、痛い。

 

それでも本を買い続けてしまうのは、そりゃあもう、あれだから(好きだから)としか説明のしようがないし、今やおれにとっての読書は、朝晩に歯を磨くのと同じくらいに生活に組み込まれてしまっているので、人としての営みから切り離すこと自体考えられないからだ。それに、読書が営みの一部であると同時に、本は、おれにとって友達であり、先生であり、光を入れ新鮮な空気を取り込む窓でもある。これはもう、細かい理屈は抜きにして、ただただ純粋に「かけがえのないもの」なのだと言うほかない(うわあ、書きたくなかった)。

 

だからこそ、手元に置いておきながら読んでいない本に対してはある程度の罪悪感を抱いてしまうし、「貴重な文化資本を腐らせている自分自身」という、おれの持つあまり目を向けたくない側面がより強化されてしまう気がするのだ。

 

そういう感情があって、今回の原文ヘミングウェイには、軽く挨拶だけして帰った。次に対面するのはいつになるか。

 

 

(まあ、図書館を有効に活用すればこのテの悩みなんて無いも同然になるんだけどね。)