もう一度BUDDHA BRANDに出会えたら
BUDDHA BRANDの『人間発電所』を聴く度に「ああ、もう一度初めて聴いてみたいなあ」という思いに駆られる。
初めて出会ったのは、確か19歳の頃だった。当時おれが知っていた日本語ラップアーティストといえばRHYMESTERやキングギドラやKICK THE CAN CREWやスチャダラパーくらいで、日本語ラップという音楽そのものも「どれだけ日本語で面白く韻を踏めるか」といった切り口でしか楽しんでいなかった。
そんな水を殆んど吸っていないスポンジだったおれの耳に、ある日突然ブッダの『人間発電所』はやってきた。
奇曲。怪曲。珍曲。狂曲。当時はどんな言葉に落とし込もうと試みたのだろうか。とにかく、どの表現をとっても、この音楽のコアを真芯で捉えることが出来ない。妙な温かみとノスタルジーを感じさせるトラックに、日本語とも英語とも言い表しがたい迷路のような言語表現。どれだけリリックに意識を凝らしてみても、ネクストバッターズサークルに控えているワードが読めない。次の歌詞を待つことなどナンセンスだと嘲笑われているようだった。一言一句1センテンス全てが不意討ちだった。そして何よりも、本当に何によりも、カッコいいことこの上ない。
そんなふうに、あらゆる解釈を許さないまま『人間発電所』は、おれの脳の言語中枢に一撃を食らわせ、あろうことかどっかりと居座るようになった。それからおれは食指を動かして、ソッコーでアルバムを聴き、リリックを覚え、カラオケで歌い、ブッダ以外の日本語ラップへも興味を伸ばしていった。
今にして思えば、音楽に限らず小説や映画でも、「触れた時点での受け手の解釈を越えた作品」というのは、その受け手の感性に大きな影響を与えるのだろう。作品の表現が、実際はテキトーに言葉やイメージを並べただけの粗野なツギハギだったとしても、受け手がのちに「ああ、こういうことだったのか」とか「なるほど、こんなやり方もアリなのか」といった気付き(あるいは勘違い)を得られれば、自らの感受性の硬直を解し、次世代の表現への種になるのだと思う。
なんだか急に話が大きくなったような気もするが、言い換えれば、音楽好き、映画好き、小説好きといったあらゆる「◯◯好き」を自負している人ほど、己の解釈の外にいる「何だかよく分からないけど凄そうなもの」と出会ってしまった時、それを受け止める寛容性と感受性を大切に育てたほうがいいのではないか、と言いたかった。これは、自戒でもある。
ともかく、アレコレ書いたが、今のおれが『人間発電所』及びブッダの音楽を理解したかといえば全くそんなことはない(リリックやトラックの部分的元ネタを知れたとしても)。むしろ理解出来ていないからこそ、意味不明で解釈の範疇を越えたこの音楽に対する気付き(勘違い)のチャンスを、いつまでも掴もうとしていられるのだと思っている。
それにしても、また『人間発電所』と出会って、あの頃の衝撃をそのままに感じ取りたい。まあ、初めては一度しかないからこそ価値があるわけで。何にしても。