管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

そして『恋する惑星』に二度恋をした。

このブログを立ち上げた当初から、そのうち『恋する惑星』について書きたいと思っていた。


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おれの大好きな映画だ。

 

でも、大好きな映画であるはずなのに、いざ書こうとWordを立ち上げてみても、なかなか文章の道筋が見えてこない。『恋する惑星』という作品自体、映画の構造上ややこしい部分を含んでいることもあるのだが、それにかかわらず、おれは映画の話が出来ない。実際、当ブログではこれまでに映画に関する記事をアップしたこともあったが、映画の内容にはほぼ触れていない。

 

というか、具体的な内容に踏み込みながら話を進めていくのが苦手なのだ。

 

それはたぶん、おれが映画を捉えようとしたとき、いきなり全体を網羅しようとしているからなのだろう。映画に限らず、あらゆる『作品』と呼ばれるものに対して、全てがわかる、あるいは、すべてを語れると思ったためしはない。どんなに繰り返し触れた作品にだって、程度の差こそあれ、いまいち釈然としない部分を感じている。それはもちろんおれの理解力の貧しさが第一の原因なのだが、人間のつくったものを人間が受け止める以上、解釈における『余白』は必然的に生まれてしまう領域なのではないか、とも思っている。

 

そして、おれはその『余白』をも十把一絡げにして語ろうとしてしまうから、どこかで言葉が詰まってしまい、文章がまごつくのだろう。それが怖かったから、映画の話が出来なかったのだ。たぶん。

 

よって、以上の問題を克服するための試みとして、まずは森ではなく木を見てみたいと思う。いきなり森を鳥瞰しても、なんだか緑色でモサッとした土地にしか見えない。だが、一本の個体レベルから地道に観察していけば、樹木の種類や生体が把握できるし、周辺に生息する生き物たちとの関係性も捉えることで、いきなり全体を見下ろす以上に『生きている森』としてのイメージが鮮明になるはずである。面ではなく、点を捕まえる。

 

さて、自分でもびっくりするくらい前置きが長くなったが、面ではなく点で『恋する惑星』について、おれなりに書いてみようと思う(なんだかリハビリみたいだな)。

 

恋する惑星』におけるおれにとっての点とは、やはり第二部に登場するフェイ(フェイ・ウォン)である。やはり、である。しょうがないよ。一番書きたいんだから。

 


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フェイは、この映画において最も強い干渉力を持っている。それは、彼女が登場人物の中でただ一人「存在を上書きする役割」を与えられているからである。と、なんだか定義づけっぽいことをしてしまったが、このフェイという女性、劇中でなかなか怖いことをしまくる。

 

詳しく書く。

 

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テイクアウト型の軽食店(Midnight Express)で働き始めたフェイは、客として訪れた警官663号(トニー・レオン)に恋をする。663号には登場時、キャビンアテンダントの恋人がいた。しかし、店に何度か通っているうちに別れてしまい、そのことを軽食店の店主に告げる。後日、663号の元恋人が店に現れ、663号への手紙と部屋の合鍵を店主に預けるのだが、あっという間に店員たちに回し読みをされた末、フェイの手元に渡ることになる。

 

言葉を交わすうちに友人関係になっていくフェイと663号。しかし663号は失恋の痛みを引きずっているらしく、フェイの存在は特に意識していないようだった。

 

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さて、ここからフェイの最大の魅力でありぶっ飛びポイントが遺憾なく発揮されていく。

 

663号の心の中で、未だ元恋人の存在が強く占められていることを察したフェイは、663号の不在を見計らい、合鍵を用いて彼の部屋の模様替えを始める。「いや完全に不法侵入やんけ!」と当時は思ったものだが、今でも変わらず思っている。

 

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「いや完全に不法侵入やんけ!」

 

でもおれがこの映画にやられてしまったのは、この不法侵入および無断模様替えシーンが、なんともポップかつ爽やかに演出されているところにある。

 

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窓から白く差し込む光。そしてお馴染みの『夢中人』をバックにして、663号の部屋、つまり元恋人の面影を塗り替えていくフェイの姿は本当に無垢だ。ヨリを戻す気になった元恋人の留守電メッセージを削除するシーンなどはいかにも女の業全開の行為なのに、ぜんぜん「業」っぽく見えない。むしろ、この映画全体を通してフェイの「業」はいつも楽しい。

 

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そして隙あらば強調されるケツ。

  

663号も663号で、部屋の変化への気づきがあまりにも遅い。喪失感で呆然としてしまっているからか部屋模様へ一切関心を向けず、玄関でフェイと出くわしてからようやく周囲の変わりようを認識しはじめる。石鹸がひとりでにでかくなるわけないだろう。「今ごろ気づいたんかい!」と当時は思ったものだが、今でも変わらず思っている。

 

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「今ごろ気づいたんかい!」

 

とまあ、フェイも663号も、二人して色々と常人離れしている感性の持ち主だ。いざフェイが663号の家で本人に見つかっても、ひっぱたかれたり警察に通報されるどころか(というか663号自身が警官なんだけど)、つった足をマッサージしてもらい一緒に昼寝までしちゃう。

 

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どこかの感想ブログに、かなり否定的なニュアンスで「この人たちは生きた人間なのでしょうか」みたいなことを書かれていた。まあ確かに、フェイと663号含めたこの映画の主要人物たちは、ふつうの人には届かないレベルの思考回路を持っていたりする。でもおれが思うのは、登場人物の持つ「ぶっ飛んだ感性」は、同じく登場人物の持つ「生のリアリティ」を損なう要因には決してならない、ということだ。

 

つまりこうだ。

 

フェイも663号も、物語を通して抱いている感情(あるいは欲望)そのものはいたってシンプルで、我々のような凡夫にも十分身近かつ共感しうる距離に流れている。

フェイは、男に恋をして、どうにか自分を見てもらいたく、前の女のことなどさっさと忘れて欲しいと願っている。663号は、最初こそ失恋の痛みを引きずっているが、ある女の熱心な(病的な)アプローチを受け続けて、次の恋を見つける。

 

実際、誰にだってあることである。

 

よく、フェイはストーカーだと言われる(ほんとにストーカーなんだけど)。ウォン・カーウァイの演出がなければ、ただの凡庸な猟奇サスペンス(ふうのラブコメ)になっていたかもしれない。

 

倫理の籠から解き放たれた感情を肯定してしまうことは、フィクションだけが持つ魔力だ。もちろん決して、反倫理であることがフィクションだ、とまでは言わない。ただ、人間の感情に(本当ならば)誰しも抱いている、倫理や常識に干渉されないアンコントロールなエネルギーを、物語以外にいったい誰が語れるのだろうか。あるいは、世間や社会に目を向けられない(目を逸らされる)、人間の心の奥の限りなくパーソナルな領域を、物語以外にいったい誰が見つけてくれるのだろうか。

 

話がでかく抽象的なってきたので、再びストーリーに触れながら話を進める。別に新しい映画でもないので、ネタバレとかは一切気にしない。

 

ようやくフェイに心を向け始めた663号は、彼女をバー『カリフォルニア』に誘う。歓喜に舞うフェイだが、結局『カリフォルニア』には姿を見せず、663号はひとり待ちぼうけを食う。実はフェイは、一度店に訪れたものの、663号とは会わず本物のカリフォルニアへ旅立ってしまったのだ。映画を見たひとの大半は、たぶんここで「なんで?」と思う。おれも思った。

 

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フェイは、この物語において、終始徹底して「夢見るひと」である。夢と現実の区別がついていなさそうなところさえある。そして「行為のひと」でもある。「行為のひと」という点においては、これまで一切触れてこなかったが第一部に登場する警官223号(金城武)とかなり対称的だ。223号は言葉を中心にアプローチを仕掛け、劇中のモノローグも多く、自身の感情や行為についてかなり饒舌である。まるで独り言と一緒に生きているような印象さえ受ける。

 

対してフェイは、663号に面と向かっている時はさほど言葉を語らない。シャイな性格、ということなのだろうが、内在しているエネルギーの総量はかなりのもので、とにかくアクションで訴える。さらにモノローグも少ないせいか、観客に対しても非説明的だ。

 

そして先ほども述べたように、何よりも「夢見るひと」であることを貫いている。驚くほどの行動力とも相まってか、「超活動的夢想家」と言い表してもいいかもしれない。実際、店のカウンターでうたた寝をはじめた直後に663号の部屋に忍び込むカットが映されたりと、見ているこっちも夢か現実かよくわからない。本人のモノローグからも「永遠に覚めない夢だってある」と語られ、完全に夢と現実の狭間の住人として生きている。むしろフェイにとっては、現実こそが夢であるのかもしれない。

 

話を再びストーリーに戻す。バー『カリフォルニア』で取り残されてしまった663号は、フェイの店の店主からフェイの手紙を渡され、彼女が本物のカリフォルニアへ飛び立ったことを知らされる。手紙の内容は、手書きの搭乗券であった。しかし雨に濡れてしまい、行き先が読めない。それから一年後、二人は再開する。663号はかつてフェイが働いていた軽食店の新たな店主となり、フェイは、663号の元恋人の職業であるキャビンアテンダントになっていた。663号は、一年前の搭乗券をフェイに見せ、滲んで読めなくなった行き先を訊ねる。そこでフェイは新たな搭乗券を書きはじめ、「どこにいきたいの?」と問い返す。そして663号は答えた。「君の行きたいところへ」。

 

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という具合で、映画は終わる。

 

ものすごくスマートにエンドロールへと移行するのでつい流してしまいそうだが、フェイがなぜ663号との約束をすっぽかして本当のカリフォルニアへと行ってしまったのか、その理由は本人の口からは語られないし、663号も問いただしたりなんてしない。

 

この点に関しては、いくつかの考察ができるだろう。フェイがあえて期間を開けてキャビンアテンダントへとなることで、663号の中に残されていた元恋人の存在を完全に「上書き」するためだったとか、フェイの中には元々理想としてのセルフイメージ(職業や髪型など)が抱かれており、663号の心変わりを完了させた上で理想像となった自分を向かい合わせたかった、とか。

 

まあ解釈は映画を観た人間の数だけあって然るべきだし(べきは言い過ぎか)、『恋する惑星』自体が解釈の余地で満たされているような映画なので、躍起になって答えを捜す必要はないと思う。

 

ただ確実そうなのは、フェイは物語の終盤、観客にも見せない何らかの「夢」を見てカリフォルニアへ飛んだということだろう。劇中しつこいくらいに流れる『California Dreamin’』が示している、何らかの「夢」。そして何度も登場する、モチーフとしての「飛行機」。フェイが目指している場所は常に「ここではないどこか」であり、彼女を夢へと連れていってくれる乗り物こそが「恋」であったのだ。

 

・・・・・・話をドタバタとまとめはじめたということは、書くことが自分でもわからなくなってきたということである。とはいえ、この記事を書く上での当初の問いが「おれは映画について何かを書けるか?」であったから、とりあえずこれを「書けた」ということにして、自分で満足してればいいんじゃないですか? かなりグダグダだったけど。

 

それと、映画の話はまたいつか気が向いたらしようと思う。というか、また『恋する惑星』のことを書くかもしれない。というのも、これだけ長文になっておきながら第一部についてはほぼノータッチだったからだ。当然、第一部の金城武とブリジット・リンも大好きである。

 

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もう忘れたけど、この記事の冒頭で「生きてる森」とか「点で捉える云々」とか言ってたな。なんだったんだあれは。

 


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