管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

コミュニケーションの鉱脈について

しばらく更新が途切れていたじゃないか。さては飽きたか。


そうだ、飽きた。


でも別に構わないだろう。ちょっと飽きが来たくらいで更新が止んだって。


どうせ誰も待ってないんだから。


おれが書くのを待ってるのは、いまのところおれひとりだけだ。

 

 

 


昨日、それなりに付き合いの長い友人Rと一緒に六本木のバーに足を運んだ。あまり気取っていない、立ち飲み形式のカジュアルな店だった。


そこで、店員のお姉さんとそこそこ話をした。いや、嘘をついた。実際は友人Rが積極的に声をかけていたところに、おれがぼそぼそと口を挟んでいただけだ。


友人Rはとても社交的な男だ。言語産出から発話までの速度が早いし、他人に嫌われることを気にしていない。おれみたいに、陰口の噂を耳にしただけで不安の海に溺れてしまうような人間とは違う。おまけに好奇心も旺盛だから、興味にある場所があればすぐ向かい、興味のある人間がいればすぐ接触する。当然、交遊関係はおれとは比べ物にならないくらい広い。そんな彼が羨ましいか? どうだろうな。よくわからない。羨ましいといえば羨ましいし、べつに羨ましくないといえば、べつに羨ましくない。違う言い方をすれば、彼には一種のリスペクトを抱いているものの、彼のようになりたいとは思っていない。おれはおれで、彼は彼だ。まあ、自分から観た他人なんてものは、誰にだってそんなものだろう。おれは特別な人間なんかじゃない。何度も言い聞かせている。

 

友人Rの話が長くなってしまったが、まあとにかく、彼のほうからお姉さんに話しかけて、それからしばらく海外旅行の思い出話などが続いていた。正直、あまりにも話題に他愛がなさすぎて、横でお追従的相づちを打っているのがひどく苦痛だった。ごめんな。

 

終わらぬ会話、おれの不馴れな愛想笑い。酒のうまさは分からない。

 

やがておれは、痺れを切らして「もう行かないか」と切り出そうとした。その時だった。お姉さんの口から「かつて劇団にいた」という一文が発せられたのは。


おれは友人Rへのエスケープ要求を引っ込めて、お姉さんの話を聞いた。

 

そこからの会話は、混じりけなしに楽しかった。特別すごいエピソードがあったわけではない。でも、関心のない話題には少しも口を開けないおれにとって、相手との会話の 共有域を見出だせることは中々代え難い体験だ。おれひとりだったらこうはならなかった。そもそも、自分から他人に声をかけることもできなかっただろう。友人R、ありがとう。

 

コミュニケーションは、掘り進めるものだ。地中に眠る宝物のように、自分の欲しかったものがはじめから顔を出しているわけではない。まずは「えい」と、スコップを地面に指さなければ何も始まらない。そしてその先の発掘作業だって、地味で地道な時間を強いられる可能性さえある。延々と続く、味気のない表土。スコップを引っ込めざるを得ない、堅固な岩盤。根気よく掘り進めても、結局なにも得られないかもしれない。それでも、思わぬところに鉱脈を見つけ、より豊かなコミュニケーションの実りを体感できることもある。あるいは、噴き上がる温泉を堀り当てて、話し相手本人も知らなかったイメージや感情を顕現させることさえも。地中には、どこに何が待っているのか誰にも分からない。この人はどんなふうに育ったのだろう。何を胸に生きてきたのだろう。何を好み、何をよろこびとするのだろう。もちろん一方的にではなく、暗黙の合意とともに、相互的に相手に入っていく。そこには、下卑た打算などない。かなり理想的になってしまったが、それはつまり、宝物を探すために掘るのではなく、掘ることそのものが価値なのだ。友人Rは、体験的にそれを学んでいたのだろう。本人にこれ言ったら「は?」とか言われそうだけど。でも、それでもだよ。おれはやっぱりおまえをすごいと思ってるよ。

 

 

おれはまだ、スコップを握っていない、ただ地面を眺めているだけの男。