管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

こころを病むことについて

またバイト先の工場の話をする。

 

おれとほぼ同年代の社員で、Oさんというひとがいる。

 

大学から新卒で入社し、現在工場に配属されている社員のなかではわりと新参のほうだ。

 

おれがこの工場で働き始めた頃にはまだOさんにも新人のオーラがびんびんと漂っていて、どちらかと言えば「監督者」よりも「ほんの少し前に入った先輩」のように接してくれた。

 

しゃべり方や風貌からはやや「ぼてっ」とした印象を受けたが、とても気さくでフレンドリーだったことはよく覚えている。

 

あれから約9ヶ月。

 

おれはバイト君のなかではそこそこ古株になり、Oさんはすっかり「監督者」になった。

 

最近のOさんを見ていると、少し胸が痛む。

 

発せられる言葉の節々に、あきらかにトゲが立ってきた。

 

よく物にあたるようにもなってきた。

 

文句のような独り言も増えてきた。

 

そして、笑顔が減った。

 

ほとんど毎日顔を合わせ言葉を交わしていると、少しずつ伸びゆく髪と同じく、緩やかな変わり様に気付きにくい。

 

でも、なんだか変わってしまっているのは明白だ。あえて言い表せば、感情の自律が確実に乱れている。

 

そして、その変容の程度はともかく、いまのOさんをはっきりと「怖い」と思っていることも事実だ。

 

いったんここで強調しておくが、おれは労働そのものを悪者に仕立てるつもりは毛頭ない。

 

労働は、言うまでもなく社会動物としての人間が生存するために必要な営みのひとつである(ここで述べる労働は会社勤務とイコールではない)。

 

また、適切な賃金と適切な待遇を保証された労働環境であれば、それによって及ぼされる心的作用(達成感や充実感など)が個々人に対し健全にコミットし、経済的だけでなく精神的にも豊かな生活を送れると思っている。

 

しかし、現状そうなっていないからこそ、労働に感情を蝕まれてしまい、心の健康を損なってしまう人々が後をたたない。

 

おれは、Oさんがそうであるのだと言いたいのではない。ほとんど言いたいけど。

 

錆は、ある日突然、こころの全容を覆ったりはしない。

 

ちりちり、ちりちり、ゆっくりと、しかし無慈悲に浸食域を広げてくる。

 

そのまま放っておけば、錆はやがて感受性に歪な蓋をかぶせ、思考の歯車に不必要な摩擦を要求する。他者の痛みがわからなくなり、自身が生き残るための判断力を鈍らせる。

 

つまり、病む。

 

「こころが病む」というと、鬱病を患って部屋に引きこもってしまう情景を思い浮かべるかもしれない。

 

たしかに、それも病のひとつの現れだ。

 

たが一方で、病を病ではなくニュートラルなコンディションとして受容してしまうという病もある。行き過ぎた適応によって選ばれた「解決」だ。

 

では、そのような「解決」を選択してしまうとどうなるのか。

 

おれは精神病理の分野に疎いので断言などできないが、たとえば、道理を無視した「解決」によって抑圧された瘴気が、どこか思いもよらない噴出口から漏れだし、やがてそれが神経症的に顕現するのではないか。

 

それが、どんなかたちで可視化されるのかはわからない。

 

コンビニやファミレスで定員に暴言を撒き散らすのかもしれない。

 

電車で痴漢行為にはしるのかもしれない。

 

ネットで誹謗中傷に精を出すのかもしれない。

 

たとえ鬱を患い暗い部屋に引きこもらずとも、これらの行為を呼び起こす瘴気が病によって生成され、また病によって発露されていると考えるのは邪推だろうか。

 

あるいは、おれがあまりにも性善説的に人間を捉え過ぎているのだろうか?

 

むろん上記の例が過酷な労働に起因すると限らないのは重々承知している。直接的な因と縁として一線上に結びつけるのは危険だ。

 

それでも、注視すべきファクターであることは否定できない。

 

Oさんの錆は、まだ、表皮の一部分だけだ。

 

だからこそ。