管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

クァイ・ヌェイの山

前職は、小さな編プロでライターまがいの仕事をしていた。おれとしてはおれなりの誠実さで執筆や雑用に取り組んでいたつもりだったが、結局十分な経験も得ぬまま、心身を損なった末、会社を去ってしまった。うまく言えないが、あの空間はおれにとっての「瘴気」でみたされていた。会社を辞めてからの四ヶ月間、おれは転職活動もせず朝から晩まで家に籠っていた。

 

ある夏の、ある日。青森に住んでいるいとこから、朝の八時に電話がかかってきた。当時同居していた両親からおれの話を聞かされたのだろう。彼女の同情と叱責と激励の言葉たちが、まるで下水管をつたって這い上がってくるハツカネズミの群れように、スピーカー越しに次々とおれの耳にもぐり込んできてはわけもわからず頭の中を駆け回った。おれは一体どれくらいの時間、他人とまともに喋らなかったのだろうか。


言いたいことを一通り言い終えたいとこは、最後にこんなことを教えてくれた。青森の下北地方のとある地域には巨人のような山があり、そこにはおれと同じように「瘴気」にあてられてしまった者たちが、その身を再び人間界に結び付けるために訪れる神域があるという。もしかして恐山のことではないのか、とおれは訊いたが、どうやら違うらしい。

 

クァイ・ヌェイ、とその山はいう。どこのことばなのだろうか。アイヌ語に由来しているのかも知れないが、ネットで調べてみても確固とした情報が得られなかった。インターネットは相変わらず知っていることしか知らない。色々と不安が付きまとったけれど、おれには特に当面の予定もなかったし、きっといとこも、おれがクァイ・ヌェイに行くべき人間だと考えてあんな話をしたのだろう。おれは東京を発つことにした。

 

東北新幹線で、東京駅から八戸駅へ。そこから、JRの八戸線だの大湊線だのと鈍行をちまちま乗り換え、北奥羽線××駅で降車した。ずいぶん奥まった、森の中のポケットのような無人駅だった。いとこの家には帰り際に寄ることにして、とにかくおれは二本の足を進めた。

 

たしかに、そこには山があった。しかし普通の山ではなかった。おれを出迎えてくれたのは現地ガイドや村人ではなく、癇癪持ちのウグイスと、認知症の山ウサギと、てんかんモグラと、虚言癖の白樺たちであった。癇癪持ちのウグイスは割れた声でおれに罵詈雑言を投げ、認知症の山ウサギは何をしに穴ぐらから出てきたか忘れ右往左往。てんかんモグラは地中から土を震わし、虚言癖の白樺は明後日プロボクサーとして初めてリングに上がることをおれに教えた。

 

おかげで道筋がわからず途方に暮れたおれは、その時ちょうど足元を横切ったクロヘビに、おれの行くべき道を尋ねた。クロヘビは、山頂の一番高い木で眠っている四本足のフクロウに会いに行けばいい、と言った。とても丁寧に教えてくれたけれど、どうやらチック症らしく、五秒に一度の頻度でどこかのギタリストのように激しく頭を揺らした。

 

息を切らして山頂に到達したおれは、クロヘビの言っていた一番高い犬槐の木で眠っている四本足のフクロウを見つけた。四本足のフクロウは、おれの気配をずっと前から感じ取っていたのだろう。すぐさまぱちりと両目を開き、こう言った。

「だろうかまた何人目聞いたよヨモギこれでから」

文法を正しく組み立てて話せないらしい。でも言わんとしていることは何となく推察できたので、おれは四本足のフクロウにここに訪れた経緯をなるだけ簡潔に話した。すると四本足のフクロウは

「黙って世界でひたすらウァヌッ・ぺオルパの下れ再び。できる生きる浴びろそうすれば。クァイ・ヌェイをことがそうしたら元の水をだろう」

彼(あるいは彼女)がそう言い終えた途端、密集した木々の奥から、黒く大きな影がのっそのっそとこちらにやってきた。オオグマだった。右の脇腹に、人間の赤ん坊ひとりがそのまま収まってしまいそうな大穴があいているオオグマ。

 

大穴のオオグマは、そのままおれの目の前に立っている――そして四本足のフクロウが留まっている――犬槐の木の側まで寄り、その毛むくじゃらの額を力いっぱい叩きつけた。

 

その瞬間、四本足のフクロウはおれの脳内に直に羽音を響かせ、天高く飛び上がる。どしゃぶりのように降り注ぐ葉の雫。おれをじっと見据える大穴のオオグマの眉間には、黄金のように黄色い血液が流れる。 

 

おれは山を下ることにした。道中、あのチック症のクロヘビがまた教えてくれた。

 

クァイ・ヌェイに来るのは、どれだけ多くてもあと一度きりにしたほうがいい。ここへ三度足を運ぶことは、クァイ・ヌェイの住人となる契約を結ぶことと同義の行いとなる。また、クァイ・ヌェイに植生する食物を口にすることも、契約と等しい。

 

おれは道に迷った。何度も同じ道をぐるぐると回り、昨日と明日のことも忘れてしまった。日が沈み、あの癇癪持ちのウグイスも、認知症の山ウサギも、てんかんモグラも、虚言癖の白樺も、チック症のクロヘビもどこかへ消えてしまった。空腹は胃を刺し、渇きは喉を砂漠にした。

 

無花果の赤が、暗闇のなかで笑うように光っている。