アメ玉をくれる清掃のおばちゃんは今日も静かに世界と人間を繋ぎ止めている
同じ工場で働く清掃のおばちゃんからアメ玉をもらった。辛さがほんのりと舌に刺さる、生姜風味ののど飴だった。
清掃のおばちゃんからアメ玉をもらうと、とても安心する。愛と違って、親切は確固としているから負けない。安心するということは、負けないものを誰かから受け取ることである。
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おれは世渡りが下手なうえ集団への適応力も低い。なので、まだ24歳のくせにいろんな職場を転々としている。職場が変わると、身を置く環境も人間関係も変わる。世界に触れるときの側面も変わる。世界との接点によって自己の輪郭が形づくられるとするならば、おれの輪郭は何度も変容し、ある時点のおれと現在のおれが同一の存在であるとの確信が保てなくなってしまう。
無論、完全不変の自己など存在し得ないことは改めて言うまでもない。「完全に同一な川」が存在し得ないのと同じように。おれたちがいかなる手段を用いて自身の存在を固定させようと試みても、おれたちの肉体の細胞という細胞は絶えず生き死にを繰り返し、意識界にはあらゆる煩瑣な悩みが散らかり、無意識界は常にどろどろと淀んでいる。そして、若さは瞬きをしているうちに過ぎ去る。
おれたちは存在ではなく現象である。そしてまた、世界も。
それでもなおおれたちは、現象を存在だと思い込み、しがみつく。執着をする。実存への不安。
……というような話はまとめて「諸行無常」の四字で説明できたので、実に無駄話だった。
でもおれは無駄話をしにきたのだ。アメ玉をくれる清掃のおばちゃんのように。
清掃のおばちゃんのアメ玉は、無常にまつわる不安を、たとえごまかしであっても和らげてくれる。今の職場でも過去の職場でも、不意に、それぞれ異なったかたちで清掃のおばちゃんのアメ玉がおれの掌の中に握られた。もちろん、今までにおれにアメ玉をくれた清掃のおばちゃんは、全員別人だ。
それでも、ふと思ったりする。
おれにアメ玉をくれる清掃のおばちゃんは、実は宇宙意思の末端であり、その都度姿を変えておれの前に現れ、アメ玉を媒介としてこの世界の現在が同一世界の過去の地続き上にあることを伝えるメッセンジャーなのではないかと。
◆◆◆
おれは今日、清掃のおばちゃんからアメ玉をもらったことで再認識をした。
テレビ局のトイレで泣いていたおれも、億ションで下卑た成金にコケにされていたおれも、知的障害者施設で入所者の子とオデコの見せ合いっこしていたおれも、編プロでやたらメシの記事を書かされていたおれも、冷凍ピザ工場でスリランカ人とチンコを触り合っているおれも、同一ではなくとも確実に一本の線とアメ玉で繋がっている。
もし明日、あなたが清掃のおばちゃんからアメ玉をもらったのならば、それは、おれが触れた存在と同一の意思から発せられたメッセージなのである。
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