管理社会VSシーフードカレー

普段は工場で働き、たまに劇団員になる人の雑記。よく嘘をつく。

こころを病むことについて

またバイト先の工場の話をする。

 

おれとほぼ同年代の社員で、Oさんというひとがいる。

 

大学から新卒で入社し、現在工場に配属されている社員のなかではわりと新参のほうだ。

 

おれがこの工場で働き始めた頃にはまだOさんにも新人のオーラがびんびんと漂っていて、どちらかと言えば「監督者」よりも「ほんの少し前に入った先輩」のように接してくれた。

 

しゃべり方や風貌からはやや「ぼてっ」とした印象を受けたが、とても気さくでフレンドリーだったことはよく覚えている。

 

あれから約9ヶ月。

 

おれはバイト君のなかではそこそこ古株になり、Oさんはすっかり「監督者」になった。

 

最近のOさんを見ていると、少し胸が痛む。

 

発せられる言葉の節々に、あきらかにトゲが立ってきた。

 

よく物にあたるようにもなってきた。

 

文句のような独り言も増えてきた。

 

そして、笑顔が減った。

 

ほとんど毎日顔を合わせ言葉を交わしていると、少しずつ伸びゆく髪と同じく、緩やかな変わり様に気付きにくい。

 

でも、なんだか変わってしまっているのは明白だ。あえて言い表せば、感情の自律が確実に乱れている。

 

そして、その変容の程度はともかく、いまのOさんをはっきりと「怖い」と思っていることも事実だ。

 

いったんここで強調しておくが、おれは労働そのものを悪者に仕立てるつもりは毛頭ない。

 

労働は、言うまでもなく社会動物としての人間が生存するために必要な営みのひとつである(ここで述べる労働は会社勤務とイコールではない)。

 

また、適切な賃金と適切な待遇を保証された労働環境であれば、それによって及ぼされる心的作用(達成感や充実感など)が個々人に対し健全にコミットし、経済的だけでなく精神的にも豊かな生活を送れると思っている。

 

しかし、現状そうなっていないからこそ、労働に感情を蝕まれてしまい、心の健康を損なってしまう人々が後をたたない。

 

おれは、Oさんがそうであるのだと言いたいのではない。ほとんど言いたいけど。

 

錆は、ある日突然、こころの全容を覆ったりはしない。

 

ちりちり、ちりちり、ゆっくりと、しかし無慈悲に浸食域を広げてくる。

 

そのまま放っておけば、錆はやがて感受性に歪な蓋をかぶせ、思考の歯車に不必要な摩擦を要求する。他者の痛みがわからなくなり、自身が生き残るための判断力を鈍らせる。

 

つまり、病む。

 

「こころが病む」というと、鬱病を患って部屋に引きこもってしまう情景を思い浮かべるかもしれない。

 

たしかに、それも病のひとつの現れだ。

 

たが一方で、病を病ではなくニュートラルなコンディションとして受容してしまうという病もある。行き過ぎた適応によって選ばれた「解決」だ。

 

では、そのような「解決」を選択してしまうとどうなるのか。

 

おれは精神病理の分野に疎いので断言などできないが、たとえば、道理を無視した「解決」によって抑圧された瘴気が、どこか思いもよらない噴出口から漏れだし、やがてそれが神経症的に顕現するのではないか。

 

それが、どんなかたちで可視化されるのかはわからない。

 

コンビニやファミレスで定員に暴言を撒き散らすのかもしれない。

 

電車で痴漢行為にはしるのかもしれない。

 

ネットで誹謗中傷に精を出すのかもしれない。

 

たとえ鬱を患い暗い部屋に引きこもらずとも、これらの行為を呼び起こす瘴気が病によって生成され、また病によって発露されていると考えるのは邪推だろうか。

 

あるいは、おれがあまりにも性善説的に人間を捉え過ぎているのだろうか?

 

むろん上記の例が過酷な労働に起因すると限らないのは重々承知している。直接的な因と縁として一線上に結びつけるのは危険だ。

 

それでも、注視すべきファクターであることは否定できない。

 

Oさんの錆は、まだ、表皮の一部分だけだ。

 

だからこそ。

 

ヘイトスピーカーたちは自らの過去に何を置いてきてしまったのか

去年の12月、天皇誕生日のことだった。その夜、おれは神保町のさくら通りでこんなひとたちとすれ違った。

 

そのひとたちは、男ふたり女ひとりの三人組で、ぱっと見、40代か50代くらいの年齢だった。

 

各々の手に握られていたのは、日の丸の国旗、メガホン、何らかの荷物が詰まった手提げかばん。

 

デモか集会を終え、どこかで呑んできた帰りだろう、三人ともひどく酔っている様子だった。千鳥足とまではいかないが、ふらふらした足取りでこちらに向かってきた。

 

暗い中でも互いの容貌が認識できるくらいに近づいたそのとき、女が突然叫んだ。

 

「朝鮮××が×××××××ねーだろー!!」

 

ろれつが悪くあまり聞き取れなかったが、そのことばを聞いたとき、おれの背筋が一瞬で強ばり、同時に彼らの姿を注視せずにはいられなくなった。

 

天皇制や国家体制に関係する祝日がやってくると、靖国通りは普段より緊迫する。

 

日の丸や旭日旗やプラカードを掲げた人々がどこからともなく姿を現し、黒塗りの街宣車からは国粋主義的(?)音楽が大音量で流れ、厳めしい機動隊員たちが機械のような顔で道路を固める。

 

そんな景色を目の当たりにする度におれはいつも悪寒に襲われ、一刻も早くどこかへ去ってしまいたいと思う。

 

その理由をここではっきりと言語化することは、正直難しい。

 

ただ、挙げられないことはない。

 

おれの持つ肉体がいわゆる「純血」の「日本民族」ではないこと。おれが今のところ体制としての国家をアイデンティティーとしていないこと。70年前の戦争によって生じた数々の過ちへの総括が未だなされていない現況において、無垢に「愛国」ということばを掲げる態度への抵抗感が拭いきれないこと(おれには愛国心がないと言いたいのではない)。

 

そしてなによりも、無論一部だが、愛国的態度を標榜しながら特定の民族への差別的言説を撒き散らす連中が公然と跋扈している現実に対する恐怖。

 

必要以上に漢語を並べ立てて読みづらい文章になってしまった。なんだよ「愛国的態度を標榜しながら特定の民族への差別的言説を撒き散らす連中が公然と跋扈している現実に対する恐怖」って。なげえし。天丼みてえに熟語が並んでんな。熟語ギャグか。いや、むしろこのテの問題や感情は和語で言い表せないからこそこうなってしまったのかもしれない。

 

だからもうはっきりと言う。

 

おれはヘイトスピーチ、及びヘイトスピーカーたちが怖い。

 

嫌いでもあるが、それ以上に、とてつもなく怖い。

 

右っぽいひとたちが集まる度に、愛国ということばを傘にしてヘイトを発散させる連中。「デモ」「散歩」と称して大っぴらにヘイトを喧伝する連中。

 

おれは愛国的態度そのものに疑問を呈しているのではない。愛国的態度を隠れ蓑にして厚顔無恥に差別を正当化する者たちがいることによって、国家的集会に出くわす度に、心に嫌なざわつきが沸き上がってしまうのだ。

 

恐らくだが、ヘイトスピーカーたちの世界観に生きている「日本人」の中に、おれという人間は含まれていないのだろう。直感だが、身体そう言っている。

 

まあ、べつにそれはどうだっていい。ただおれの中で氷解しないのが、現状、連中が標的にしている対象は在日韓国人在日朝鮮人の人々がほとんどであるのにも関わらず、なぜだか、おれ自身もまた攻撃されているような感覚になっていることだ。おれは在日韓国人在日朝鮮人ではないのに。

 

この判然としない感覚と、おれが初めてヘイトスピーチを目撃したときの感情は、いつか別の機会に書くかもしれない。今はまだ、自分でも説明できない。

 

話を冒頭に戻す。

 

あの天皇誕生日の夜、おれとすれ違った中年女は、突然「朝鮮××が×××××××ねーだろー!!」と叫んだ。

 

そのワンセンテンスのみで彼女らをヘイトスピーカーと認定することは乱暴かもしれないし、むしろそういった指差しこそが差別的行動とも思えてしまう。そもそもおれは発言の半分以上を聞き取れなかった。ほんとうはヘイトスピーカーなんてひとりでも少ないほうがいい。あくまで全て仮定だ。しかし、彼女の語気からははっきりと高揚の中の侮蔑と嘲笑を感じ取ったし、横にいた男たちの反応も、完全に彼女に同調した高笑いであったことは忘れられない。

 

そしてもうひとつ、おれは悪寒とともに彼女らに対する物哀さも抱いてしまった。

 

侮蔑的で嘲笑的な語気で何かを発したあの三人組は、とても楽しそうだった。その様子は、まるでライブに来た観客を存分に沸かせてきた学生バンドマンたちの打ち上げ後のようだった。

 

たとえがわかりにくかったと思う。すまん。要するに、酔っている状態とはいえ、道路の真ん中を無遠慮に歩き人目も気にせず「勝利」の余韻に浸っている彼女らの様子に、人間的成熟を微塵も見いだせなかったのだ。

 

よく言えば、とても若々しかった。まるで(二回目)あの頃の青春をやり直しているようにも見えた。

やり直している? もしかしたら、少し違うかもしれない。

 

まったく的はずれかもしれないが、こう思った。

 

彼女らがほんとうに拠り所にしたかったのは、個人にとってはあまりにも巨大であまりにも強権的な「国家というシステム」ではないと。

 

ほんとうに拠り所にしたかったのは、いつも隣にいて、喜びも悲しみ苦しみも分かち合ってくれて、自分が社会的動物として満たされていることを実感させてくれる「生身の他者」だったのではないか。

 

そしてほんとうに求めていたのは、国家と自己の同一化ではなく、同じ目的で汗を流し、同じ席で酒を呑み、同じ歩みで笑ってくれる仲間なのではないか。

 

人間関係に恵まれているひとであれば、そういった関係性は若いうちに築くことができて、ある程度年を重ねてもそう簡単に失うことはないかもしれない。肉体とともに、感情も成熟してゆく。

 

では一方で、若いうちに、利害ではない実りのある人間関係を築けなかったひとは?

 

おれには想像することしかできない。でも、想像だけでも、寂しさ空しさと満たされなさばかりを胸に抱えてしまうことだけはわかる。そうして、ほんとうにひとりで死を待つことになってしまうということも。

 

おれはまだ若いし、自分が損得抜きの恵まれた関係性の中に生きているかどうかよくわからない。年を重ねたあとのことも、実際に年を重ねてからでないとわからない。でも現在のおれにとって、同じ劇団の仲間も、同じ職場の友人も、同じ家で狭くもそれなりに楽しく暮らしている同居人もみんな違うかたちで大切な存在だと思っているし、おれはおれなりの幸福の中にいると思っている。いつか別れが訪れるものだとしても、そう簡単に失いたくない。

 

いまは、それしか言えない。言えることがあるとすれば、おれはひとりが好きなくせに何かに繋がる糸を持っていないと正気を保てない弱い人間であり、おれのような人間はきっと他にも大勢いるのだろうということ。

 

あの日の三人組は、若さと呼ばれるはずだった過去に置いてきた忘れ物を取り戻すために、国家と民族と差別に青春を見いだしてしまったのだろうか。だとしたら、なんだかやりきれない。

 

いっつもやりきれない思いしてんな、お前。

 

ブラック企業とか、転職とか、生きる力とかについて

おれの働く工場に、新入社員Nさんがやってきた。中途採用だ。

 

かなり細身の男で、歳はおれと同じくらい。言葉遣いは丁寧だけど、語気がやや角ばったしゃべり方をする。それに遊びのない黒縁メガネも相まって、堅物っぽい印象さえも受ける。でも、腰も低いし大人しいから、きっと緊張しているのだろう。

 

ここに来る前のNさんは、とあるつけ麺チェーン店の経営会社に勤めていたようだ。聞けばなんでも、一日の総労働時間が常軌を逸する長さで、毎日のように早朝から深夜まで働いていたらしい。十把一絡げで乱暴な括りなのは承知だが、飲食業界ならば「よくある話」だと思った。それにしてもよく生き残ったな。

 

ところで。

 

正社員として入社したNさんとは対照的に、おれの現在の雇用形態はバイトだ。劇団活動をなんとなく言い訳にしているが、社員として就職できない特段の理由はない(学歴と職歴上、就活でかなりの不利をこうむるが)。ただ単に、自由なシフトや、残業を拒否できる権利などの「いくらかの身軽さ」のために、非正規労働者という立場に身を置いている。収入とセーフティネットと若さを引き換えにして。

 

もちろんこれは、「あいつは正社員で羨ましいなあ」とか「おれはバイトだからあいつより気楽に働けるぜ」みたいな話とは違う。優劣ではなく、ただの相違だ。いや、将来の安定性とかを加味すれば優劣があるということになるのかな。

 

まあどっちでもいいや。

 

ともかくとして、晴れてNさんは人権無視なんて朝飯前のブラック企業から、わが工場へと見事転身を果たしたわけだ。

 

見事転身を果たしたわけだ。

 

見事転身を果たしたわけだ。

 

……。

 

8Bの黒さから、4Bの黒さに。

 

古今東西往古来今、現実はいつどこから触れても非情だ。群盲現実を撫でても、きっと誰もが異口同音に「現実とは非情なものです」と答えるに違いない。

 

すまん、それは言い過ぎた。いいことだってあるよ。

 

話を戻す。

 

Nさんがかつて勤務していた会社が紛れもなき「どブラック」であったことは疑いようもない事実だ。でもうちの会社(工場)も、なかなかの黒さが社員たちから好評を博している(もちろん皮肉だ)。通常稼動の製造日でも長時間の勤務が常態化しており、年末の繁忙期になればそれこそ「早朝から深夜まで」働くことを余儀なくされる。

 

それでもNさんは、「前より全然マシだから良い」と言う。

 

なるほど。

 

彼は今まで毎日その身体をムチで百叩きされる環境にいた。そこから、七十叩きの環境に身を移した。叩かれる回数が三十回少なくなれば、痛みも傷も相対的に少なく感じるだろう。あるいは生易しく思えるかもしれない。それでも、いや、だからこそ、七十回のムチ叩きを「全然マシ」と言ってしまうNさんが不憫でならない。

 

「不憫でならない」。なんと傲慢で不遜なもの言いだ。おまえは何者なんだ。

 

うるせえな分かってるよそんなこと。でも、そう言わざるを得ないくらいに、Nさんの境遇はやりきれない。彼にとっての「より良い環境」とはあくまで相対的なものであり、それはすなわち「ムチで叩かれることがない」環境ではなく「ムチで叩かれる回数が少ない」環境であったということなのだ。

 

べつにおれは、「あいつは馬鹿だからそう思っていて、おれは賢いからそう思わないはずだ」と言いたいのではない。

 

おれだってNさんと同じ道を辿れば、間違いなく彼と同じように考え、彼と同じような皮膚感覚が身につくだろう。相変わらずムチで叩かれるけど、回数が少ないから全然マシだと。だからこそやりきれないのだ。おれにとってNさんは、というか、過酷な環境で働かされている同世代の人間は全員「そうなるかもしれなかった自分」だ。そして同時に、これからそうなるのかもしれないのだ。

 

べつの社員がこう言った。このひともおれと同年代だ。

 

「うちはブラックだと思うけどさ、かといって完全なホワイト企業なんてのもどこにもないよ」

 

たしかに、きっとそうなのだろう。世の中の企業には純な黒もなければ純な白もなく、すべてはグレーであり、その濃淡が問題なのだと。その摂理(?)には、特に異論はない。

 

でも、それで良いのだろうか。おれには先の社員の言葉が、「順応こそが現状の最適解なんだよ」というふうにも聞こえてしまう。それは、おれがあまりにも理想を求めすぎているからなのだろうか。

 

嫌で苦しいことはなるべく回避して生きているおれでも、理想郷を求め安直な転職を繰り返したり、労働から逃げたい一心でプランの不鮮明な投資に大枚をはたくことが良策だとは思っていない。かといって、過酷な今を現状追認し、ただの諦めをクレバーな態度と履き違えて苦役に耐える振る舞いが正しいとも思っていない。もちろんおれのように、明確な夢も目標もないくせにフリーターを続けている怠惰な生き方も。

 

ならば、どうすればいいか。

 

おれにはわからない。

 

なんだ、大言を吐いたわりには自分でもなにもわかっていないじゃないか。

 

そうだよ。でもおれは「どうすればいいかわからない時にどうすればいいか」を考えることこそが、人間の生きる力であると信じている。少なくとも、自分を騙して理不尽な労働に身をやつすことに、生きる力は存在しない。生きたいと願う力が躍動する余地なんてどこにもない。「わからないでいる自分から目を逸らすこと」を「わかった」とは呼ばない。

 

これを「自分探し」なんて手垢まみれ大腸菌まみれの紋切り言葉で片付けようとすんなよ。

 

 

誰かに向けた生存報告

このブログのことをすっかり忘れていた。

 

嘘だ。忘れてなんかいない。

 

 

 

夢の中のおれはまだ高校生で、授業をさぼり、屋上で雲を眺めながら慣れないタバコをふかしていた。

善良な時給労働者の10連休

GWといえば、旅行。旅行といえば、海外。平成最後の連休開始日、今日の成田空港は出国者で大混雑です。

 

まーーーーーーーーーおれにはカンケーないけどね!!!

 

収入の賃金依存度100%かつ時給労働者のおれには、勤め先の工場が全日非稼働なおかげで初夏にもかかわらず大寒波なのであります。

 

あーあ。やってらんねーよ。

 

連休のあいだ、少しくらいは短期でバイトしてもいいんだけどさー、派遣の登録会にわざわざ出向くのもメンドーだし、望まないものとはいえ、いちおうの『休日』を返上してまで働くのはおれの人生の命題に反する気がするからヤなんだよねー。

 

ところで、おれの人生の命題って?

 

まあそれはおいおい考えていくとして、もう連休中ははたらかないと決めたからには、そのかわり何をして過ごすか考えなければならない。

 

正直、金はあまり使いたくないんだよね(そんなもんないから)。よって、浦安ネズミ国で遊ぶだとか、ショッピングを楽しむだとか、野球を見に行くだとか、いかにも「善良市民の休日娯楽」的な時間の過ごし方はできないのよ。はじめから望みやしてないんだけどさ。

 

10日間あるのだから、なにかそれなりの娯楽性があり、かつ、なんやかんや言い訳をして後回しにしていた計画(予定)はなかっただろうか。

 

いっこあった。

 

読書。

 

いや、それはいつもやってることなんだけどさ、せっかくだし、普段手をつけてない本を読んでみようと思うんだ。

 

たとえば、長編の古典文学。

 

おれの読書といえば、通勤電車のなかでぱらぱら文庫本をめくったり、休憩時間にスマホ青空文庫をシュシュッとスクロールしたりするもので、休日に本の虫になって分厚い思想書を何時間もむさぼり読むようなことはほとんどないの。言い換えれば、時間を忘れて読書に没頭した経験が久しくないんだよね。強いて言えば、子どもの頃以来。

 

なので、あの頃の感覚を取り戻せたらいいなと思って、ちゃんと「読書だけの時間」をたっぷり用意しようと思う。電車の中で読む短編集ではなく、がっつり盛りの、分厚い古典を。

 

なにせおれはこの連休で何万円もの賃金を失うんだ。せっかくだから、読んで実りのあるものにしたい。よっしゃ、ドストエフスキートルストイあたりにすっか。

 

そう決意したおれは三省堂で文庫本をいくらか買った。

 

さっそくおれはその本を・・・・・・読まずに近くの安バーでコロナビールを飲んだ。うめー。店員のおねーちゃんかわいー。

 

だめじゃん。

 

金持ちどもが海の向こうで遊んでいる。どこかのビーチに寝そべってピニャコラーダを飲んでいる。でも善良な時給労働者は、実質ウン万円失い、文庫本買ってコロナビールをあおるだけさ。

 


忌野清志郎 ~ 善良な市民 (音のみ) - YouTube

火のついた猿のことば(ファックに読もうぜ好兄弟)

文体。

 

作家の個性やクセをあらわす数多くの要素の中でも、この『文体』というやつは真っ先に目につく。そりゃ当たり前だろう。野球をほとんど知らないひとでもピッチャーの投球フォームの違いがわかるように、普段本をあまり読まないひとにも、ある作家とある作家(たとえば森鴎外山田悠介)の文章の違いくらいは認識できるはずだ(時代とかレベルのはなしではないよ)。もちろん、やや腕の位置が低いスリークォーターとやや腕の位置が高いサイドスロー同様、明確な境界がなく、ある程度目が肥えていても差異を見いだしづらいパターンもあるが、「完全に同一ではない」ことくらいはわかる。

 

さて、ここでそれらしく問うてみる。

 

誰かの文章を読んだとき、その文体ひとつで書き手の表現力や論理構成力(つまり力量)を判定することはできるか?

 

「はーい。そんなことはありませーん」

 

そうだね。でも、潮干狩りができそうなくらいに浅いおれの読書遍歴を遡ってみると、文体というのは、読み手のとっての「府に落ちやすさ」に大きく関わるものだと感じている。語彙のレベルにかかわらず、「ああ、この文体だからこそこの話が腑に落ちるのか」と実感するときが、あまり多くないけど、必ず、必ずやってくる。

 

「はーい。じゃあ、そのフニオチルときって、どんな話の、どんな文体のときなんですか?」

 

えっ。…そんなもん時と場合によるんだよ。具体例なんてわかんねえよ。そんなもん聞いてくんなようるせえな。というかお前はだれなんだよ(ぽかぽか)。

 

(第二幕)

 

今回なぜこんなことを書こうかと思ったか。それは、ある本の文体に触れて「ははあなるほど」と思ったからだ。

 

栗原康著『アナキズム-ー一丸となってバラバラに生きろ』

アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)
 

 

いまや書店の新書コーナーでは、たくさんのレーベルが軒を連ねている。読書の無関心層にも手を伸ばしてもらいたいためか、頭の悪…キャッチーなタイトルの本もたくさん並ぶようになった。いや、キャッチーなだけならまだしも、時おり薄気味悪いレイシズムゼノフォビアさえ感じるタイトルも見受けられる。ひどい。とはいえ、そんな昨今の新書シーンでも、岩波新書は相変わらず落ち着いている(あと中公新書も)。荒れたクラスで黙々と自分の勉強に励んでいる優等生みたいだ。がんばれ。

 

今回取り上げる『アナキズム』は、岩波新書発だ。二年くらい前の話だけど、おれの中でちょっとした大杉栄ブームが起きていたので、その影響でいまでもアナキズムアナキストにはそれなりの興味を持っている。だから三省堂書店で本書を見かけて、思わず手が伸びてしまった。僕は精神が好きだ!

 

ページを開いてみる。するとどうだ。これが岩波新書の本なのだろうか。まあ、あれこれとおれのことばで説明するよりも、本文をちょっと引用してみたほうがすぐにわかるだろう。以下の引用文は、序章『アナキズムってなんですか?』の一部分だ。

 

 

ファック・ザ・ポリス、ファック・ザ・ポリス。ファックにいこうぜ、好兄弟! ファックに燃えよう、好兄弟! 燃やせ、燃やせ、燃やせ。あんたもわたしも、あそこのあの子も、身体がどんどん燃えていく。どんどんどんどん燃えていく。壊してさわいで、燃やしてあばれろ。猿、猿、猿、そしてさらなる猿の登場だ。えっ、そんなのいっときのことでしかないでしょうって? そうかもしれない。でもそれでもいい。たったいちどでもその味をしめたなら、あの火のついた猿たちがわすれることはないだろう。ウッキャッキャッキャッキャッキャーーーッ!うれしい、たのしい、きもちいい。オレ、すごい。オレすごい。オレ、オレ、オレ、オーレイ!ケモノになったわたしたち。この酔い心地だけは。

 

 

なんなのだ、この文体は。まず、ひらがなが多い。小学生、というか、バカに向けて書かれているみたいだ。開く漢字の基準もよくわからない。


それに文章の調子も、言文一致どころかかなり口語に寄っている。いくらカジュアルに読める新書だからといって、あまりにもくだけている。『ファック・ザ・ポリス、ファック・ザ・ポリス』『燃やせ、燃やせ、燃やせ』のような反復に至っては、もはや陳述ではなく煽動だ。もの穏やかに知性的であろうとする姿勢に中指を立てている。

 

そして、アナキズムとはなにか? 要はこういうことなのだろう。体裁のない、むき出しのエネルギー。動物的衝動の解放。自らを拠り所として生きたいと願う炎。生の拡充。演繹的にくどくど説明するまえに、のっけから読者に踊ってみせている。これがアナーキーだぞと言わんばかりに。わかりやすい。おれみたいなバカでもわかる。

 

上述の引用文に限らず、本書においては終始このような調子でアナキズムについて語られる。アナルコ・キャピタリズムのはなしも、アナルコ・サンディカリズムのはなしも、火のついた猿が燃えながら語っている。燃える猿のことば。

 

そう、猿だ。この本は、徹頭徹尾、猿のことばで綴られている。そして、読む方も猿になっていく。猿と猿の対話。アナキズムに詳しいひとならば、本書で示される定義や具体例にいくらかの反論があるかもしれない。アナキズムをそんなに知らないおれでも、これ一冊でアナキズムの全てを網羅できるとは思っていない。でも、それなりに学術的解説も含まれた本を「テンション」で読み通せる読書体験というのは、じっさい貴重なのではないかと思う。

 

本を読むときに、よく、自分が気になった箇所に線を引きましょうだとか、思ったことを書き込みましょうだとか言われたりする。おれ自身そういうことはほとんどしないけど(知識吸収のための手段みたいだから)、どんな目的でどんな読み方をしようとも、それは読む人間の自由だ。みんな自分にとっての楽しい読書をすればいいよ。

 

今回読んだ『アナキズム』。たぶん、ページをぱらぱらめくってみた段階で一種の拒絶反応が出るひともいるだろう。だってアジビラみたいなんだもん。しかしアナキズムを語るためには、おそらく、教授的論述よりも活動家的煽動のほうが読者の身体に馴染むのではないかと思う。言い換えれば、「頭による理解」よりも「身体による受容」のほうが、より気持ちのいい読後感を得られるのだろうということだ。きっとそれを「腑に落ちる」と呼ぶ。

 

著者・栗原康氏のこの文体が「岩波新書的に正解」なのかは分からない。「正解なんてどこにもないんだよ」なんて手垢まみれ大腸菌まみれの定型句は使いたくないけど、まあ内容そのものは決してふざけてなどいないので、これはこれでいいのだろう。集英社新書の『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』(高橋源一郎著)も全編小説だったし。

 

ところでだけど、記事の最後にもう一度引用文をのっけるとものすごく「それっぽく」なるよね。

 

 

アナキズムとは、絶対的孤独のなかに無限の可能性をみいだすということだ、無数の友をみいだすということだ、まだみぬ自分をみいだすということだ。コミュニズム。自分のために、自分のためにさえ生きていれば、なんにでも、またなんにでもなれるよ。ほんのつかのまのことかもしれない、でもほんのつかのまでも、その一瞬に自分の人生を賭けることができたのなら、けっしてわすれることはないだろう。この酔い心地だけは。アナーキーをまきちらせ。コミュニズムを生きて生きていきたい。一丸となってバラバラに生きろ。

 

 

 

アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)
 

 

 

 

終点まで各駅に停まります

今日も、今日も疲れたね。

 

仕事前や仕事中はいつも言葉を散らかすのに、こうして帰りの地下鉄に揺られる頃には頭が空っぽになっている。

 

人間を取り戻す時間にこそ、もっともアクティブでいたいのに。

 

おれはいつ、顔を上げて地表を歩める?

 

明日は今日なのかもしれない。

 

板橋区役所前

 

新板橋

 

西巣鴨

 

巣鴨

 

千石

 

白山

 

春日

 

水道橋

 

神保町

 

AME NIMO MAKEZ

 

途中、どこかの駅で押し出されてしまった。

 

戻ろう。どこに? あのすし詰めの車両に?

 

どうしようもない気分になって、ベンチに腰かけた。とりあえず書く。なんもかもくだらねえ。

 

23時42分。

 

OK、余裕。未来は俺等の手の中

 


THA BLUE HERB - 未来は俺等の手の中 - YouTube