管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画

思い込みが強いわりに想像力が欠落してるヤツは蜘蛛の糸でバンジージャンプでもしていればいい

蜘蛛の糸を伝い昇るカンダタが、利己心を起こさずに罪人たちを極楽へ導いたとしたら、蓮池のふちには地獄の難民で溢れかえるだろう。釈迦よ、どうやって引き取るつもりなのだ。

 

「ええ、そうなんですよ。ちょっと極楽の瘴気にあてられちゃったみたいで。すいません、ご迷惑おかけしますわ」

 

こうしてお釈迦様は、数限りない罪人たちを、素性を隠して極楽の僻地にある精神病院に放り込んだのでございます。

 

 

その様子を、空のひび割れから見上げていた私。

裏窓から覗き込んでいたジェームズ・スチュワート

 

(包摂的虚無としての)無題

私事だが、数日前に父方の祖母を亡くした。

かといって、この場で祖母の思い出をしみじみと語ろうという気はない。もちろん感情はある。ただ、身内を亡くすと(一種の被害妄想なのだろうが)しばらくの間、周囲から「身内を亡くした人間らしさ」を要請されているかんじがしてなんとなく口を噤みたくなるのである。

 

というと少しカミュの『異邦人』ぼい話になりそうなのだが、べつにあっけらかんとしていたいのでもない。

 

ただあえて、ここで祖母について語る言葉があるとするならば、

祖母は詩人であった

と記しておくだけだ。

 

どれだけ多くとも、これだけである。

この場においては。


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まどろみのカナディアン・ライダー(ピザまん冒険奇譚②)

カナディアン・ライダーはカナダ人である。

カナディアン・ライダーはカナリアの国を目指している。

カナディアン・ライダーに「絶対に」マッチを擦らせてはならない。

 

途方もない荒野の上に、乱暴に敷かれた砂利道。その路傍には昔のヒッピー・コミューンのような住居群が、密生するたけのこのように並んでいた。

そこでおれはカナディアン・ライダーと出会った。

カナディアン・ライダーは怪獣のようなハーレー・ダビットソンに跨がり颯爽と現れ、脂ぎった小麦色の長髪とタワシを移植したみたいな口髭を風に揺らしていた。

彼の風貌を一言で形容するならば紛れもないボーン・トゥ・ビー・ワイルドで、そのビジュアルの、イメージの拝借元が丸分かりな安直さのおかけで、ここが夢の中であることをようやく自覚できた。

 

カナディアン・ライダーはカナダ人である。

カナディアン・ライダーはカナリアの国を目指している。

カナディアン・ライダーに「絶対に」マッチを擦らせてはならない。

 

おれはこの世界の像を少しでも多く掴むため、カナディアン・ライダーにいくつかの質問をした。

しかしおれが何を訊ねても、返ってくる答えは、オートミールのスパイシーなアレンジレシピと、ヒキガエルの後ろ足の限界可動域に関する考察のどちらかでしかなかった。

残念ながら、そのふたつの情報は今のおれには不要なものであった。

 

カナディアン・ライダーはカナダ人である。

カナディアン・ライダーはカナリアの国を目指している。

カナディアン・ライダーに「絶対に」マッチを擦らせてはならない。

 

カナディアン・ライダーは情報の対価として、おれの持つ黒いマントかマッチのいずれかを求めた。

しかしマントもマッチも今のおれには失くしてはならないものだったし、後出しで対価を求めるのはフェアではないと思ったので、彼の要求に応じることはできなかった。そもそも差し出された情報がおれにとって無価値であった以上、事後承諾的な等価交換には同意もクソもなかった。

とはいえ、誰かにとっての公平が他の誰かにとっての不公平になってしまうことはどの世界にも往々にして起こる。おれが何も差し出さなかったことに対し不満を感じたらしいカナディアン・ライダーは、ならば私と勝負せよと挑発を仕掛けてきた。

勝負?

彼が持ち掛けてきた勝負とは、ようは速さくらべであった。彼の自慢のハーレーとおれの操る乗り物でレースを行い、敗れたほうが相手の主張を全面的に受け入れる、ということにしたいらしい。

なるほど、まだいまいち釈然としない部分は残るが、公平性の担保という視座から見れば、一応の落とし所とは言えるかもしれない。

しかしおれには乗り物がない。やはりカナディアン・ライダーの提案は公平ではなかった。

 

カナディアン・ライダーはカナダ人である。

カナディアン・ライダーはカナリアの国を目指している。

カナディアン・ライダーに「絶対に」マッチを擦らせてはならない。

 

この勝負は呑めない。しかしこれ以上頑なになっていると彼を逆上させかねない。どうすればいいのだろう。

だんだんと高慢になってきているカナディアン・ライダーを前にして途方に暮れていたそのとき、何の前触れもなく、ヒッピー小屋の中から静かに一頭の白馬が姿を現した。

おれはその白馬に名を訊いた。『西遊記夏目雅子が跨がっていた馬』だ、とその白馬は答えた。それを言うなら確か『玉竜』が本当の名ではないのか、とおれは訊き返したが、白馬は『西遊記夏目雅子が跨がっていた馬』こそが本当の名であると突っぱねた。ならばこれ以上言うまい。それにしても、本当の名とはいつどこで誰が決定するものなのだろうか。

相手はハーレーという資本と自由の象徴だ。おあつらえ向きの比較対象が目の前にあるように、まさしく数十馬力のパワーがある。しかしおれには、自分でもよくわからないが『西遊記夏目雅子が跨がっていた馬』であれば勝てるという予感があった。夢の予感は必然である。

ハーレー・ダビットソンと『西遊記夏目雅子が跨がっていた馬』の邂逅。

風を貫き、世界の黙殺の一端に針の穴を空ける。

 

勝敗は歴然だった。それでもおれは、結局カナディアン・ライダーがどこの何者で、これからどこへ向かおうとしていたのかは最後までわからずじまいだった。

 

 

ピザまん冒険奇譚

誰が買ってきたのかはわからないが、冷蔵庫の奥にピザまんがひとつ入っていた。

その日はなんとなくピザまんが食べたいと思っていたし、ピザまんとしてもそろそろ食べられておかないと食品としての寿命を不本意なかたちで終えてしまうだろうから、この出会いはおれたちにとって好都合で運命的だった。

 

冷蔵庫からピザまんを取り出して手ごろなお皿にのせ、ほんの少しだけ表面を水で濡らし、ラップをかける。

電子レンジに入れて、スイッチをピッ。

ピザまんを温めて間に、何か1分程度で済むような些事(たとえばゴミ箱の袋を入れ換えるとか、冷蔵庫に貼り付けてあった用済みのメモを捨てるとか)を片づけようと思ったおれは、電子レンジの側を離れた。

 

おれは、午前7時53分の布団の中にいた。

しまった。迂闊にもおれがピザまんを入れた電子レンジは、夢の中にしかない電子レンジだったのだ。

どうしよう、とおれは思った。広大な沃野でもあり奇天烈な迷宮でもある夢の世界でもう一度あの電子レンジを見つけ出すとなると、いったいどれだけの月日を経なければならないのだろう。もしかしたら、一生、おれはあのピザまんを口にいれることができないのかもしれない。

そう思うとおれは、とても悔しくて、泣きたいような気持ちになってしまった。

 

なぜ人は、もう二度と手にすることができないかもしれない何かを、こうも簡単に自分でもわからない場所に匿してしまえるのだろう?

 

でももしかしたら、それを見つけ出すことこそが、ある意味では人間に与えられた天命なのかもしれないし、人生の主題と呼べるものなのかもしれない。

そう思ったおれは、あの電子レンジの中に入れたピザまんを取り戻すための準備を始めた。

 

 

水に食糧に磁石にマント、タバコと詩集は夢の地図

 

 

 

苦しみのアジア、無心の反芻

満員電車がつらくて、途中の駅で降りてしまう。ホームのベンチに座り神経を整えるが、はたして、こんな調子で朝出勤の仕事に就くことができるのだろうか。そして彼(彼女)らはなぜ無事でいられるのだ?

 

とりあえず本を読む。

 

きょう買ったばかりの、アジア地域における弥勒信仰について書かれている本(あと池田晶子の本も買った)。

そのまえがきには

「苦しみのアジア」

というフレーズがある。

やけに奥に残ることばだな、と感じた。たぶん逆の語順で「アジアの苦しみ」であったならば、そのまま海馬の向こうまで通りすぎてしまっただろう。

 

苦しみのアジア

 

苦しみのアジア

 

苦しみのアジア

 

……と心の中で反芻してみる。

南無阿弥陀仏然り南無妙法蓮華経然り、無心の反芻によってもたらさせるものを、おれたちはよく知っている。「無心の反芻」なんていうと撞着的だが、とにかく「無心の反芻」なのだ。

 

いまから56億7000万年後、苦しみのアジアには如来となった弥勒が到来し、衆生は救済される。

いまのおれは、とにかく目の前の苦しみに運ばれなければどこにも帰れない。

 

もう9時になった。

 

辿り着くためには無心の反芻だけが頼りだ。

 

Jの波浪にのせられて

朝起きたらすぐにJ-WAVEのラジオをつけて、洗濯やら皿洗いやら軽い掃除やら弁当の準備やらを2~3時間かけて済ます。そうして仕事に行く。もちろん朝食は欠かさない。それがここ最近の朝のルーティンだ。夜は休眠、朝に用事で調子保持。

 

さて、そのJ-WAVE。きょう洗濯物を干していたところで、番組内に「映画コメンテーター」なる人物が登場し、クリスマスにオススメしたい映画とやらをあれこれと紹介していた。

映画コメンテーター?

評論家とは違うのか。

その「映画コメンテーター」は紹介した映画に関して、その映画が映画史のなかでどのような文脈に位置しているか、またシナリオの構成作法がどの類型に属しているかなどを説明していた。

じゅうぶん「評論家」の仕事である(出来ではなく内容という意味で)。しかし尺の都合なのだろうがひとつのトピックに踏み込む深度が浅く、用語が絡む解説になるとなるだけ表面を撫でるだけのような語り口に徹している印象だった。

まあ昼前のラジオで「クリスマスにオススメしたい映画」なんて銘打っている時点でどのような層に向けているかは想像に難くないし、そこに難癖をつけるつもりはない。番組のコンセプト上「評論家」よりも「コメンテーター」が語ったほうがなにかと都合がよいのだろう。いいんじゃないんですか。

 

しかしおれは「コメンテーター」と称して電波といっしょに飛んでくる人間を好いている。ひじょうに好いている。

番組の中で何らかの事件・問題に対しコメントを添える人々を十把一絡げにして称賛する意図はないが、その大半、とくにワイドショーとかいう恥知らずのテーマパークで狭窄な縄張りにしがみついている蒙昧な諸兄姉には特上の敬服を抱くばかりである。

己の見識の相対性をすっかり忘失したような切り込み方で、まともな検証や統計にも裏づけられていない、しかも影響力だけは一丁前に付与した放言を無責任に流布する様は、さながらイジメっ子たちが実権を握った小学校の学級会である。いや、公共の電波に乗せられてお茶の間に押し付けられるぶん、ワイドショーのほうがずっと高尚である。おまけに自身が素人であることを逆手に取り、おのが発言をあくまでも「コメント」とし退路非常口脱出路そしてあらゆる免罪符を懐に忍ばせるなどと、なんと正々堂々とした振る舞いであろうか。これならいかなる偏見と無理解を醸成し、電波を受信するしか能のない我々下賎の民どもに糾弾されようとも「言葉が足らず誤解を招いてしまった」と誠意溢れる定型句で心から謝罪し粛々と責任を取ってくださる。

マキシマムリスペクト。マジBIG UP。

本音を申し上げておくと、そのような聖者賢者の方々には現世に留まっておられるよりも、とっとと解脱して涅槃寂静へ到達してくださるほうが我々衆生はこの暗愚な世俗においてもう少しばかり生きやすくなるというものだが、さすがに敬意を表しすぎてしまったので、もうやめにする。

 

思わぬところで熱くなってしまった。

ともかく、ラジオで映画の紹介をしていた何某さんもせっかく素人以上の映画リテラシーと見識を持っておられるのだから、ケチケチと「コメンテーター」などと名乗らなくても良いのではと思ったのである。

映画に対する謙虚さゆえなのかもしれないが。

 

 

峻別からはじまるもの――または、もう孤独なのかも!

実家のマンションの近くに、小さな保育園がある。

ちょうど一年前、近所の川沿いで職員さんの名札が落ちていたのを発見して、それを届けに行った。そのときお礼を言ってくれた保育士さんの溌剌とした笑顔が良くて、お世辞にも整った容姿のひとではなかったけれど、とても魅力的だと思った。

さて、そんな保育園の入り口前に、こんな紙が貼り出されてあった。


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まあ要は「ガキがうるせえってクレームがありました」ということなのだけれど、なんだかやるせないが、この頃はこのテの苦情は「よくあること」なのである。

 

率直に言うと、おれはこの「よくあること」にはまったく与する気がない。なぜかというに、いい歳した大人(かどうかは知らないけど)が保育園、幼稚園、小学校に「ガキがうるせえ」と難癖をつける行為は、自らが「共同体の成員」であることの放棄を宣言しているに等しいからである。

自分で偉そうに持ち出しておいてなんなのだが、「共同体」とはとても曖昧で難しい枠組みである。いったい何だろう。極端に一般化された言い方をすれば「地域住民」や「コミュニティ」ということになるのかもしれないが、いずれにせよ、狭量的な身内意識からより視野を拡張させた「よく知らない他者への包摂意識」を内包しているのだと思う。いま思った。

ややこしい言い回しをしてしまったが、つまり、子ども、老人、病人、障碍者、外国人もひっくるめた隣接する他者を「他人だけれど他人じゃない」と認識できる人々によってローカル(必ずしも地域だけを意味しない)が担保され、また、そのローカルを担保しようとする振る舞いを自然的に日常に取り込めている人々が成員として一定数存在している状況がこそが「共同体」なのではないか。

「共同体」とは、存在ではなく状態なのである。

 

保育園の子どもを騒音発生装置として認識してしまう人々がいるとするならば、彼らは、隣接する他者を「気に食わないけどなぜかそこにずっとあるもの」として峻別しているのではあるまいか。分断は峻別からはじまる。「おまえもガキだったやんけ」と言いたいところではあるが、もう、そういった言葉は届かないところまで来てしまっているのかもしれない。みんな孤島に生きている。

 

さてどうしたものか。カート・ヴォネガットの小説みたいに、みんなが家族になっちゃおうか。