管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

他人について書くことができなくなった

表題の件です。

 

という、ビジネスメール風の一文。

 

それはともかくとして、本当に他人について書くことができなくなった。

 

工場でバイトしていた頃は、同僚やら先輩やら後輩や社員やら、あるいはそのへんですれ違った人やらのことを、勝手に心情を推し量ってあれこれと書き連ねていたものだが、広告ライターの仕事をするようになってからは、同じことがさっぱりできなくなった。

 

※なぜか。

 

ひとつには、他人と接触する機会が著しく減ったという要因がある。出社していた時期は各々の人間が各々のパソコンとにらめっこして各々の業務に没入するという環境にいたものだから、業務上の必要性がない限りは隣の席の人とすら言葉を交わすことがなかった。おまけに今は在宅勤務である。こういった環境下では、電話越しに作業進捗の確認や問題点の報告くらいしか発話する機会がない。強いて言えば、自分や他人が書いた文章を声に出して読むことも「発話」といえば「発話」なのかもしれないけれど。

 

とはいえ、個々の関わり合いが最低限となった社内であろうが電話でしか喋らない自宅だろうが、そこには確実に「コミュニケーション」というものが存在していた(存在している)。にもかかわらず、他人のことを考えることが著しく少なくなった。

 

※(繰り返し)

 

確実に実感しているのは、今の職場は、以前働いていた工場と比べて従業員たちの均一性が極めて高いということだ。もちろんこれは「周りの連中はどいつも似たり寄ったりつまんねー。もっとおれを楽しませてくれよー」と言いたいのではない(1ミリも思っていないかと問われれば嘘になるけれど)。今の仕事のような俗に言う「クリエイティブ職」は、決して、同じく俗に言う「誰にでもできる仕事」ではないだろう。個人的な所感ではむしろクリエイティビティの対極を見ている気もするが、ともかく社会通念的な視座から見れば職業ライターは立派な「クリエイティブ職」ということになっている。そんな「誰にでもできる仕事」ではないクリエイティブ職」に就く人たちの間には、あまり人間的ばらつきが見られないような気がするのだ。

 

※(繰り返し)

 

 

と問われ、具体例を要求されても、正直挙げるのは難しい。

 

※(繰り返し)

 

なんかこの曲サビ多いな。まあそれは置いておくとして、具体例を挙げることがなぜ難しいかというと、かく言う自分自身もその「あまり人間的ばらつきが見られない」「均一性が極めて高い」集合体の一部だからだ。

 

自分はもう、とっくに適応しきって、同化している。

 

自分、右隣の人、左隣の人。これら三者を個体識別する際の基準とは?

 

個々の生物学的な相違、あるいは性格・気質の傾向、そして価値観の立脚点のこととかを言っているのではない。そんなの全員違うに決まっているだろ。でもそんなのは、例えば「ユニクロのネイビーブルーのカラーシャツ」と「ユニクロのダークブルーのカラーシャツ」のボタンの形状の違い程度のものなのだ。おれにとっては。

 

おれにとっては。

 

と思う「ユニクロのコバルトブルーのカラーシャツ」のおれなのであった。

 

 

 

※(繰り返し)