管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

土曜日→( )→月曜日

 

病院に行った

2週間ぶんの睡眠薬をもらった

お酒は控えてください、と言われた

 

バッティングセンターに行った

バッティングを2ゲーム、ストラックアウトを1ゲームプレイした

 

ドンキホーテに行った

くつ下と洗剤を買った

 

古本屋に行った

やなせたかしの絵本を買った

 

回転寿司に行った

ハイボールと、いくらかの寿司を胃袋に入れた

 

公園に行った

少し歩いたあと、駐車場の陰で抱き合った

「昨日は眠れた?」

「君が夢に出てきてくれたからね」

「嘘でしょう」

「もちろん」

両手が頬を撫でた

 

本物ではない

それでも、熱さが身から溢れる

 

流れる

 

 

5/11近況報告(利き手でない方のあこがれ)

 

昨晩、とてつもなく後味の悪い夢を見て、午前3時ごろに目を覚ました。そうして夢の「えぐみ」に唇を歪めながら再び入眠すると、こんどは、カルト宗教のイニシエーションかと思うような、幻覚・幻聴まがいの夢。

 

どうしたことか。

 

しかもだ。今こうして仕事終わりにキーボードを叩いている(自分自身を含めた)光景も、どこかの夢で見たことがある。右手には電球色の太陽。左手に襖。正面は本棚。左胸と心臓。おれはいったいどこにいるのだ?

 

 

 

とりあえず、ここのところすっかり忘れていた近況報告をしよう。

 

3か月ほど前に新しい職に就いた。前の職、冷凍ピザ工場は辞めた。というか実質強制的に辞めさせられた。俗にいう「人員削減」のあおりである。非正規労働者の弱さ、ここにあり。

 

では、その「新しい職」とやらは何か。それは一言で説明するのは難しいが、簡単に言うと、医療系広告の文章を書く仕事だ。肉体労働から頭脳労働、ピザから広告文、えらい転身じゃないか。しかしおれはピザ工場の前には小さな編プロで働いていたので、職種としては往復した形になる。面接時にだいぶ人間性を疑われたが、やはりポートフォリオがあれば話は早い。「経験はありませんが昔から文章を書くのが好きで云々……」なんていう醜悪な誓いを立てる手間が大きく省けた。まあ、その面接後、担当者から電話越しに「お前本当にちゃんと働くんだろうな(要約)」といった念押しをされ、結局誓いを立てさせられたのだけれど。

 

さて、広告の仕事である。おれは自覚の上では「広告」とか「マーケティング」といった類のものには唾を吐きかけるスタンスの人間ではあるのだが、そのくせ過去には広告代理店の求人に応募をしたりと(門前払いだった)、「利き手でない方で羨望する」きらいがある。

 

なぜだろうか。

 

広告は、不特定多数の対象を「ある地点」へと誘導する。幸福を約束するようなメッセージを看板に添えながら、地獄へ行きつくかもしれない道を笑顔で舗装するのだ。おれはそんなイメージで捉えている。良し悪しの問題ではない。ただ、広告には性悪説のまなざしを向けておいた方が健全だと思っている。

 

しかし、おれがしたい話はそんなものではない。なぜ俺が広告に対して「利き手でない方で羨望する」ことをやめないのか、それを知りたいのだ。

 

そこには間違いなく、ある種の下卑た憧れがある。

 

「大衆を動かす側」に回りたい?

 

情報を消費することしか能のない痴呆どもを愉快に軽蔑したい?

 

「イケてる」仕事に就いて、あの頃に対する記憶の中の復讐を果たしたい?

 

どうなんだろうな。

 

いずれにしても夢が教えてくれるだろうよ。バーカ。

 

 

雪の峠でポン・カンナ・カムイが語った(ピザまん冒険奇譚④)

すべての胎児は詩人であった。なぜなら人は、地上に生まれる前にこそ、言葉の中で暮らしていたからだ。

地上の言葉は、まやかしである。そして、君たちがかつて詩人であったことを思い出すには、今や、ある場所へと足を運ぶしか方法が残されていない。

 

京成本線堀切菖蒲園駅の近くにある「肉のハナマサ」へ行ってみるがいい。そこには、君たちが語るはずだった言葉たちが「業務用詩集」として冷凍庫に押し込められている。

せっかくだから、その「業務用詩集」からひとつの詩を取り出してみよう。解凍するには、冷蔵庫なら8時間、常温なら2時間半くらい置いておくといい。ただし、電子レンジでの解凍はあまり勧めない。中に入れたまま夢から醒めてしまうと、再び取り出すのにたいへんな苦労を要するからな。

 

◆◆◆

 

 

その瞬間を誰にも見せぬまま

恒久の眠りに沈んだたったひとりの貴女よ

夢枕に耳傾ければ

その胸の奥底、小石の波紋すら浮かばぬほどの静謐に満ち

鼓動はあらゆる妄執と煩いから解き放たれていた

 

貴女よ

いま貴女は

此の岸の虚妄を捨て去り

真実の智慧を得て

花と泪と記憶の舟で渡される

ただ静かに

ただ静かに

偽りなき安穏へと

 

25年目の4月26日にて、貴女に

 

 

◆◆◆

 

なんとまずい詩であろうか。「業務用詩集」の詩たちは、詩人であった頃の記憶の片鱗だけで書かれている。そんなものは、何も喚起せず、何も示唆しない。おまけに、酸化を防ぐためのph調整剤が添加されているおかげで、身体にも良くない。

しかし君は、泥の中でもがきながら詩を取り戻そうとしている人間の言葉を聞いた。一度聞いてしまった人間は、二度と「聞いたことのない人間」に戻れない。

悪く思ってくれるな。

そうやって少しずつ変わっていくのだ。地上は。

 

派遣社員 島耕作

夢の中では、しばしば「自分が何者であるか」が交錯する。つまり、過去と現在と未来が一本の線であることを止め、あらゆる経験と願望と後悔が、同じ顔をしてやってくる。

たとえば、こんなふうに。

 

◆◆◆

 

見知らぬゲームセンターに来たけれど、お目当てのゲームはどれも筐体が埋まっていた。

このまま、誰かが終わるまで待とうか。

いや、でももうじき塾に行かなきゃならない。しかも数学の宿題は全くの手つかずだ。これでは、また怒られる。もう怒られたくない。

待てよ。

今のおれは、もう社会に出て働いていたはずだ。ライターの仕事をしていて、自分の家で文章を書いているんだった。

ああ、安心した。もう塾に行かなくても済むんだ。

でも、ちゃんと休みの連絡は入れないと。無断欠席すると、来週行くのがもっと嫌になる。

とにかく街に出よう。それよりもSに会いに行かなきゃ。

そうだ。おれにはSがいたんだ。やっぱりうまくいってたんだ。

新宿の街を走って、もう一度、西口のあの柱で待ち合わせよう。

 

 

 

君がいてくれて、本当に良かった

ドラッグストアのシャーマン

断言をするほどではないが、基本的に、アイドルや女優といった「(程度の差こそあれ)商品性を内包している女性」を好きになれない。可愛い、とか、美人だ、といった感想を抱くことはあったとしても、好意や憧れは芽生えないのだ。理由? 知らない。多分こういうのを「生理的に云々」と言ったりするのだろう。

 

とはいえ、例外みたいなものはある。例えば、これ。

 


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こういう「美容・健康系商品のモデル女性」は、実はわりと好きだったりする。

 

ちょっと待て。お前はついさっき『「(程度の差こそあれ)商品性を内包している女性」を好きになれない。』とか言ってたじゃないか。やっぱりお前は嘘吐きだ。とうとう馬脚を現したな。死ね。死ね。人間のクズ。人様の足を引っ張りやがって。世間に詫びろ。今すぐ。

 

そう、確かにおれは矛盾しているようなことを言っている。でも違う。ちょっと聞いてくれ。

 

このひとのようなモデルたちも、間違いなく商品性を伴っておれたちの前に現れる。むしろ商品性の強さという観点で言えば、アイドル・女優なんかよりも強い。

 

でも、その商品性は「内包」はされていない。彼女ら「美容・健康系商品のモデル女性」は「商品それ自体の媒介」である。言い換えれば、商品の有用性や魅力を付託された「シャーマン」なのだ。

 

これは例えば、篠原涼子がキレートレモンの広告モデルになるのとは違う。この場合、キレートレモンの持つ「疲労がリフレッシュされそうな感じ」に、篠原涼子の持つ「アクティブで有能なキャリアウーマンぽい感じ」を相互的に包摂させることで、「毎日頑張っているあなたもこれで癒されて明日も頑張ろう!」というふうなメッセージを抽象的に伝えているのである。それは、イメージとイメージの掛け合わせとも言える。篠原涼子がキレートレモンの広告塔を務めている根拠は「有名だから」だけではない。わざわざ言うのも恥ずかしい、広告の基本だけれど。

 

しかし、先の写真のようなモデル女性は、何のイメージも持ち込んでいない。どこの誰なのかも分からないほぼ匿名の存在だということもあるが、今の例で挙げた篠原涼子とは真逆に、商品に対して意図的にイメージを与えていない。強いて挙げれば「健康で何も病を抱えていなさそうな感じ」を受け取ることができるが、それは、商品の有用性と魅力を阻害しないために消去法的に選ばれた個性でしかない。彼女の仕事は、商品に対して徹底的に「付託される側」に回ることだ。言わば、究極的に空虚。「役者はどこまでも空虚であるべきだ」というような考え方があるが、女優ではない、彼女ら「美容・健康系商品のモデル女性」がそれを体現している。とことん空っぽであるところに神性さえ感じて、惹かれる。

 

結論。空虚は魅力である。そんなにユニークなことは言っていない。

 

でもそれは結局のところ、純粋性や無垢性への崇拝と大差ないんじゃないの? 「ピュアが一番!」とか、海が干上がるくらいに気持ち悪いなお前。だからお前はいつもいつも女に「見切られる側」なんだよ。生きてて楽しいの?

 

うーん。そう問われてしまうと、うまくアンサーできない。でも、純粋性や無垢性への崇拝は、少年・少女愛へと結びつきやすい。一方おれは、ガキはかなり苦手だ。というか怖い。

 

そういうことだ。今はそれで納得したことにしてくれ。

見たか聞いたか坊主たち

左から、文殊菩薩虚空蔵菩薩地蔵菩薩普賢菩薩


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EVERY SATURDAY NIGHTでは、彼らの間でひっそりと入れ替わりゲームが行われる。

人間は、彼らの配置が変わっていても案外気付かないものである。

しかし地蔵菩薩だけは、頭が丸いせいで、移動がすぐにバレる。

そういうわけで、他の菩薩たちは地蔵菩薩を仲間外れにしているのだ。

 

でも菩薩たちは知らないんだろうな。

地蔵菩薩が動いていないおかげで、彼らの入れ替わりゲームが未だバレずにいるということに。

そしておれたちも、この期に及んでまで気付けていない。

「仲間外れ」という存在こそが、ゲームをゲームとして機能させているということに。

濡れる女神の空拳(ピザまん冒険奇譚③)

「あなたが落としたのは、今あなたがいるポストに少し前まで座っていた人間ですか? それとも、変性意識?」

 

泉の女神の手には、何も握られていなかった。おれが落としたのは、ハッピーセットでついてきた潜水艦のおもちゃだった。でもそいつを落としたのは、おれが5歳のときで、それも家の風呂場の排水溝にだ。

仕方がないので女神を映画に誘ってみたけれど、泉からは一歩も外に出ることができないらしい。

でも本当は、知っている。

誘った映画が、岩波ホールで上映しているものすごく地味なドキュメンタリーだったから、全然気が進まなかったんだ。

だってその証拠に、この間、この女がディオニュソス神と一緒に『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を観に行っていたのをおれは又聞きしたのだから。

 

胸を痛めながらさ。