管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

火のついた猿のことば(ファックに読もうぜ好兄弟)

文体。

 

作家の個性やクセをあらわす数多くの要素の中でも、この『文体』というやつは真っ先に目につく。そりゃ当たり前だろう。野球をほとんど知らないひとでもピッチャーの投球フォームの違いがわかるように、普段本をあまり読まないひとにも、ある作家とある作家(たとえば森鴎外山田悠介)の文章の違いくらいは認識できるはずだ(時代とかレベルのはなしではないよ)。もちろん、やや腕の位置が低いスリークォーターとやや腕の位置が高いサイドスロー同様、明確な境界がなく、ある程度目が肥えていても差異を見いだしづらいパターンもあるが、「完全に同一ではない」ことくらいはわかる。

 

さて、ここでそれらしく問うてみる。

 

誰かの文章を読んだとき、その文体ひとつで書き手の表現力や論理構成力(つまり力量)を判定することはできるか?

 

「はーい。そんなことはありませーん」

 

そうだね。でも、潮干狩りができそうなくらいに浅いおれの読書遍歴を遡ってみると、文体というのは、読み手のとっての「府に落ちやすさ」に大きく関わるものだと感じている。語彙のレベルにかかわらず、「ああ、この文体だからこそこの話が腑に落ちるのか」と実感するときが、あまり多くないけど、必ず、必ずやってくる。

 

「はーい。じゃあ、そのフニオチルときって、どんな話の、どんな文体のときなんですか?」

 

えっ。…そんなもん時と場合によるんだよ。具体例なんてわかんねえよ。そんなもん聞いてくんなようるせえな。というかお前はだれなんだよ(ぽかぽか)。

 

(第二幕)

 

今回なぜこんなことを書こうかと思ったか。それは、ある本の文体に触れて「ははあなるほど」と思ったからだ。

 

栗原康著『アナキズム-ー一丸となってバラバラに生きろ』

アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)
 

 

いまや書店の新書コーナーでは、たくさんのレーベルが軒を連ねている。読書の無関心層にも手を伸ばしてもらいたいためか、頭の悪…キャッチーなタイトルの本もたくさん並ぶようになった。いや、キャッチーなだけならまだしも、時おり薄気味悪いレイシズムゼノフォビアさえ感じるタイトルも見受けられる。ひどい。とはいえ、そんな昨今の新書シーンでも、岩波新書は相変わらず落ち着いている(あと中公新書も)。荒れたクラスで黙々と自分の勉強に励んでいる優等生みたいだ。がんばれ。

 

今回取り上げる『アナキズム』は、岩波新書発だ。二年くらい前の話だけど、おれの中でちょっとした大杉栄ブームが起きていたので、その影響でいまでもアナキズムアナキストにはそれなりの興味を持っている。だから三省堂書店で本書を見かけて、思わず手が伸びてしまった。僕は精神が好きだ!

 

ページを開いてみる。するとどうだ。これが岩波新書の本なのだろうか。まあ、あれこれとおれのことばで説明するよりも、本文をちょっと引用してみたほうがすぐにわかるだろう。以下の引用文は、序章『アナキズムってなんですか?』の一部分だ。

 

 

ファック・ザ・ポリス、ファック・ザ・ポリス。ファックにいこうぜ、好兄弟! ファックに燃えよう、好兄弟! 燃やせ、燃やせ、燃やせ。あんたもわたしも、あそこのあの子も、身体がどんどん燃えていく。どんどんどんどん燃えていく。壊してさわいで、燃やしてあばれろ。猿、猿、猿、そしてさらなる猿の登場だ。えっ、そんなのいっときのことでしかないでしょうって? そうかもしれない。でもそれでもいい。たったいちどでもその味をしめたなら、あの火のついた猿たちがわすれることはないだろう。ウッキャッキャッキャッキャッキャーーーッ!うれしい、たのしい、きもちいい。オレ、すごい。オレすごい。オレ、オレ、オレ、オーレイ!ケモノになったわたしたち。この酔い心地だけは。

 

 

なんなのだ、この文体は。まず、ひらがなが多い。小学生、というか、バカに向けて書かれているみたいだ。開く漢字の基準もよくわからない。


それに文章の調子も、言文一致どころかかなり口語に寄っている。いくらカジュアルに読める新書だからといって、あまりにもくだけている。『ファック・ザ・ポリス、ファック・ザ・ポリス』『燃やせ、燃やせ、燃やせ』のような反復に至っては、もはや陳述ではなく煽動だ。もの穏やかに知性的であろうとする姿勢に中指を立てている。

 

そして、アナキズムとはなにか? 要はこういうことなのだろう。体裁のない、むき出しのエネルギー。動物的衝動の解放。自らを拠り所として生きたいと願う炎。生の拡充。演繹的にくどくど説明するまえに、のっけから読者に踊ってみせている。これがアナーキーだぞと言わんばかりに。わかりやすい。おれみたいなバカでもわかる。

 

上述の引用文に限らず、本書においては終始このような調子でアナキズムについて語られる。アナルコ・キャピタリズムのはなしも、アナルコ・サンディカリズムのはなしも、火のついた猿が燃えながら語っている。燃える猿のことば。

 

そう、猿だ。この本は、徹頭徹尾、猿のことばで綴られている。そして、読む方も猿になっていく。猿と猿の対話。アナキズムに詳しいひとならば、本書で示される定義や具体例にいくらかの反論があるかもしれない。アナキズムをそんなに知らないおれでも、これ一冊でアナキズムの全てを網羅できるとは思っていない。でも、それなりに学術的解説も含まれた本を「テンション」で読み通せる読書体験というのは、じっさい貴重なのではないかと思う。

 

本を読むときに、よく、自分が気になった箇所に線を引きましょうだとか、思ったことを書き込みましょうだとか言われたりする。おれ自身そういうことはほとんどしないけど(知識吸収のための手段みたいだから)、どんな目的でどんな読み方をしようとも、それは読む人間の自由だ。みんな自分にとっての楽しい読書をすればいいよ。

 

今回読んだ『アナキズム』。たぶん、ページをぱらぱらめくってみた段階で一種の拒絶反応が出るひともいるだろう。だってアジビラみたいなんだもん。しかしアナキズムを語るためには、おそらく、教授的論述よりも活動家的煽動のほうが読者の身体に馴染むのではないかと思う。言い換えれば、「頭による理解」よりも「身体による受容」のほうが、より気持ちのいい読後感を得られるのだろうということだ。きっとそれを「腑に落ちる」と呼ぶ。

 

著者・栗原康氏のこの文体が「岩波新書的に正解」なのかは分からない。「正解なんてどこにもないんだよ」なんて手垢まみれ大腸菌まみれの定型句は使いたくないけど、まあ内容そのものは決してふざけてなどいないので、これはこれでいいのだろう。集英社新書の『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』(高橋源一郎著)も全編小説だったし。

 

ところでだけど、記事の最後にもう一度引用文をのっけるとものすごく「それっぽく」なるよね。

 

 

アナキズムとは、絶対的孤独のなかに無限の可能性をみいだすということだ、無数の友をみいだすということだ、まだみぬ自分をみいだすということだ。コミュニズム。自分のために、自分のためにさえ生きていれば、なんにでも、またなんにでもなれるよ。ほんのつかのまのことかもしれない、でもほんのつかのまでも、その一瞬に自分の人生を賭けることができたのなら、けっしてわすれることはないだろう。この酔い心地だけは。アナーキーをまきちらせ。コミュニズムを生きて生きていきたい。一丸となってバラバラに生きろ。

 

 

 

アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ (岩波新書)