管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

ダニエル・キイスの卵豆腐

眠りの浅瀬に立って、無意識の海に身を沈めようとしているその瞬間、突然天啓を授かることがある。何だったんだ、今のは、と思う。記憶に留めておきたいと思う。でも、ものの数分で、別の考え事や俗世の喧騒にかき消されてどこかに忘れてきてしまう。

 

ところが今回は不思議なことに、しぶとく頭の目立つところにこびりついているのだ。

 

通勤のため地下鉄に乗っていた。混み具合の割には珍しく座れたので、多少リラックスしながら読書が出来ると思い、リュックから本を取り出して開いた。

 

ただ、昨夜あまり眠れていなかったせいか(主に酒のせい)、待っていましたと言わんばかりに睡魔に肩を叩かれてしまった。でもおれはとくに抵抗もせず、よく実った稲穂みたいに頭を垂らして、瞼を閉じた。眠い時にはなるべく寝たい。

 

そうして、女の子のことなんかを考えたりしてるうちに意識が混濁していって、脳内のイメージがどんどん抽象化されていった。

 

その時、雷に打たれた。

 

ダニエル・キイスの卵豆腐」。

 

ダニエル・キイスの卵豆腐」。ハッと意識が覚醒して、おれは心の中で復唱した。ちょうど巣鴨を発車したところだった。

 

ダニエル・キイスの卵豆腐」とは何だ。ダニエル・キイス印のブランド卵豆腐のことか。それとも、ダニエル・キイスが卵豆腐を器用に箸でも使いながら食べているのか。

 

さっぱり解らなかったが、とにかく、おれの意識を真芯で捉えた一撃であることには違いなかった。このことばが、一体何を示唆していて、一体おれをどう導くつもりなのだろうか。

 

ちなみについ先ほどまでおれが読もうとしていた本は「アルジャーノンに花束を」でも「24人のビリー・ミリガン」でもなく、稲葉振一郎の「社会学入門」であった(おれはいつも入門だけしてすぐ帰る)。ダニエル・キイスなんて、高校生の時以来一冊も読んでいない。なぜダニエル・キイスなのか。そしてなぜ卵豆腐なのか。

 

メッセージを受け取るということは、それが内発的なものにせよ外発的なものにせよ、とても難しい。アブラハムやイエスムハンマドみたいな預言者たちは、このような何ら脈絡も理路もない、比喩をこねくり回して形状を失ったワードでさえも自らに落とし込み「神の言葉」として人々に伝えたのだろうか。

 

まあ、おれは宗教には暗いので(逆に何が明るいんだ?)詳しいことは分からないが、もしおれが巣鴨駅で授かった「ダニエル・キイスの卵豆腐」の啓示が神の導きだったとしても、せいぜい「巣鴨を聖地とし卵豆腐を供物にしてダニエル・キイスを崇め奉る」というひねりもユーモアも無い宗教の開祖になるぐらいが精一杯だろう。

 

「宗教の開祖になるぐらいが精一杯」って、おれの精一杯意外とすごいな。

 

ヘミングウェイに挨拶だけして帰る

例外の時期はあれど、基本的に、あまり勉強が出来ない子だった。

 

大まかな成績分布で言えば、中の下くらい。何かが飛びぬけて優秀だったぶん、他のどこかの領域が壊滅的だったというわけでもなく、ただ、全体的に「ぼんやりと」低成績だった。要するに、メリハリも無く、ここぞというときにエンジンもかからないタイプの無気力に由来するものだったのだろう。

 

そんなおれが、三省堂の洋書コーナーでヘミングウェイの「老人と海」(原文)を立ち読みしてみて「なんかいけるかも」と思ってしまった。「擬似関係代名詞」とか「仮定法過去完了」とか言われても頭の上に疑問符が3つくらい浮かび上がるだけのおれが、適当に開いたページを読んでみて、「なんかいけるかも」と思ってしまった。横に辞書を置き、時間をかけて、ゆっくりと噛み締めるようにページを繰っていけば、一冊読み通せるのではないか? けっこう薄いし。

 

でも、結局買わなかった。やっぱり読まないだろうな、と躊躇ってしまったからだ。

 

いまのおれの本棚には、洋書に限らず、先のような「なんかいけるかも」と思い買ったは良いが、冒頭にしおりが挟まったまま(あるいは全く読まれないまま)眠っている本がかなりある。実数は分からないけれど、たぶん、10冊あれば3~4冊はまともに読まれていない。半年前にブックオフで買ったイギリスの古典小説とか、二年前に紀伊国屋で買った、大日本帝国の植民地言語政策について書かれた本とか、いつどこで買ったのかも覚えていない、仏教思想と日本文学の関連性について書かれた本とか、その他もろもろ。

 

その中には、すっかり諦めて売ってしまうものもあれば、「いつかまた読む日が来るかもしれない」と、未練タラタラで本棚で腐らせてしまうものもある(時折目に入ってくる背表紙が催促の視線のように思えて少し気まずい)。読書という行為をあえて費用対効果の観点で捕らえるのならば、おれはたいへん損をしているに違いない。

 

では、なぜそんな読めないかもしれない本など買ってしまうのかと問われれば、正直、答えに窮する。

 

強いて言えば、健全な好奇心と、いくらかの背伸びと、知性や教養へのコンプレックスが、その場その場で異なった割合で胸に混ざり、ある種のエネルギーとなって湧き上がるのかもしれない。もしくは、読みきれないと分かっていても、おれの中のどこか(深層意識とか?)にあるレーダーが勝手に感知して、手が勝手に伸びてしまうのかもしれない。

 

どちらにせよ、新品中古問わず、読みもしない本を恒常的に買い続けてしまうのは財布にやさしくない。というか、痛い。

 

それでも本を買い続けてしまうのは、そりゃあもう、あれだから(好きだから)としか説明のしようがないし、今やおれにとっての読書は、朝晩に歯を磨くのと同じくらいに生活に組み込まれてしまっているので、人としての営みから切り離すこと自体考えられないからだ。それに、読書が営みの一部であると同時に、本は、おれにとって友達であり、先生であり、光を入れ新鮮な空気を取り込む窓でもある。これはもう、細かい理屈は抜きにして、ただただ純粋に「かけがえのないもの」なのだと言うほかない(うわあ、書きたくなかった)。

 

だからこそ、手元に置いておきながら読んでいない本に対してはある程度の罪悪感を抱いてしまうし、「貴重な文化資本を腐らせている自分自身」という、おれの持つあまり目を向けたくない側面がより強化されてしまう気がするのだ。

 

そういう感情があって、今回の原文ヘミングウェイには、軽く挨拶だけして帰った。次に対面するのはいつになるか。

 

 

(まあ、図書館を有効に活用すればこのテの悩みなんて無いも同然になるんだけどね。)

 

 

 

気まぐれジン・トニック

あるアーティストのある曲の素晴らしさを讃えたくなってキーボードを叩き始めたのだけれど、書きながら飲もうと思っていたジン・トニックがあまりにも美味すぎて、書く気が失せてしまった。

 

なので、ジン・トニック的気分について、急な思いつきで書いてみようと思う。

 

と思って試しに5行くらい書き出してみたら死ぬほどつまらなかったので、やっぱいつもどおり本読んで寝〜よう。

 

これが、ジン・トニック的気分である。

 

 

ままならない意思。爽やかな苦味。

他人、アルコール、松本人志

ビールやウイスキーを乱暴に飲んだせいか、今、ひどく頭が痛む。

 

6時間前、ハイネケンを飲みながら、DVDでダウンタウンのコントを見ていた。

 

途中までは痴呆みたいな顔をして笑っていたのに、動物園のネタが始まったあたりで、突然、ありとあらゆる不安と焦燥が頭の中になだれ込み、何もかもが嫌になって、逃げるように眠ってしまった。画面の中では、松本と東野が何も知らずに騒いでいた。

 

動物園コントと個人的絶望にどのような因果があるのかは分からない。

 

 

そうして頭痛に締め起こされて、特にすることもないまま、こうしてパソコンを開いた。

 

酒で頭が重くなる度に、ある人間から「お前、他人に興味無いだろ」と言われたことを思い出す。

 

その通りだ。

 

その通りだからこそ、その言葉は、刻印みたいにおれの脳の深いところに打ち込まれ、頭が痛むたびに顕現する。いや、むしろ、おれの頭を締め付ける呪詛としての作用が先にあり、おれが記憶の中で「お前、他人に興味無いだろ」と再生することで頭痛を引き起こすのかもしれない。

 

どちらなのかは分からない。けど、かといってあまり関心も無い。

 

でも、もしかしたら、そんな呪詛を打ち消す真言マントラがどこかにあるのかもしれない。今のところ、そんなものを見つけられる予感はしないが。

 

 

コミュニケーションの回復。

 

コミュニケーションによる回復。

 

コミュニケーションのための回復。

目覚めても虚構

池袋の新文芸坐イングマール・ベルイマンの映画を観た。この監督の映画は以前にも観たことはあったが、正直なところ、特別好きというわけではない。

 

ただ、映画が観たかっただけだ。

 

「映画を観に行く」という行為はまあまあ好きだ。そのくせ、「映画」そのものにはあまり興味が向かなかったりする。個々の作品としての「映画」も、概念としての「映画」も。

 

だから、自分で金を払っておきながら平気で寝る。今回も寝た。

 

映画館で眠るのは、読書中にうたた寝するのとは違った趣がある。

 

寝転びながら本を読んでいる。だんだん眠くなる。少し目を閉じようと思う。そうすると、一旦、本を開いたまま胸の上に置いておくか、あるいは、しおりを挟んでぱたんと閉じ、脇のほうにうっちゃっておくことになるだろう。

 

すると、自らと虚構との接続を、刃物で断ち切ったみたいに外すことになる。こちらから明確に扉を閉じて、はいまた今度ねと、現実へと後ずさりするようなものだ。

そうして、プラットホームみたいに一度現実に降り立ってから浅い夢へと乗り換えていくわけなのだが、目が覚めたあとは、どうなるか。

 

つかの間のうたた寝は夜の眠りと違って、記憶や自己の一時的な喪失を経ることなく一瞬で現実に押し戻される。頭が冴えてくるその前から、とりあえず早急に処理しておかなければならない些事だとか、今はどうにもならないけれど近いうちに解決を強いられる厄介ごとへの不安だとかが一気に押し寄せてくる。気だるい体に、容赦なく。これはもうたまらない。一種のバッドトリップだ。生きることが嫌にさえなってくる。

 

その点、映画はどうだろうか。

 

上映中、瞼が重くなってくる。首が傾く。カットの意図を追うのをやめる。細く、淡くなっていく視界の中で、せめて字幕だけは捉えようとする。それでも目を閉じてしまうが、大きな音や声が聞こえてきたら目を開けようと思う。仮に目を開いても、こいつ誰だっけと、登場人物を把握しきれなくなる。再び瞼を閉じる。やがて、意識の行方が分からなくなる。

 

そんなふうに、覚醒から眠りへのちょっとした旅路があるわけなのだけれど、映画は本と違って、こちらからアクセスを断たなくても勝手に事を進めてくれる。おれのことなんかお構いなしに世界が動く。

 

そして、目が覚めたあとでも、おれは虚構の前にいる。覚醒につきまとう目覚めの不快さと現実の不快さに同時に襲われないのは、おれにとってひじょうに健康的だ。健やかだ。

 

映画の中では相変わらず、誰かが苦悩したり辛酸を舐めたり悔恨にとらわれたりしている。映画の話を映画でたとえるのは無粋で非スマート的だが、ヒッチコックの「裏窓」みたいに、他人の生活や事件を好き勝手詮索しながら眺めるのは楽しい。それは、読書とは違って、こちらが起きていようが寝ていようが関係なく進行していく世界を覗いているからなのだろう。

 

どこか下卑ているような気もするが、そのへんは直視しないでおこう。映画だって、ちゃんと観てる気になっていても本質的には直視していないんだから。大抵。

 

それとベタ過ぎて書くのさえ憚られるが、これまで観た映画で一番深く眠ったのはタルコフスキーの「惑星ソラリス」だった。後半は何も覚えていない。いや、全部観たとしても変わらないだろうな。「ノスタルジア」も全然覚えてないし。

ジム・ビームを隔てた彼女。

 

 

803号室。

 

 

 

しらすのペペロンチーノ。

 

 

 

ドアーズ。

 

 

 

共産党宣言

 

 

 

矢口書店。

 

 

 

恋する惑星

 

 

 

救世軍

 

 

 

ゲイリー・オールドマン

 

 

 

靖国通り

 

 

 

名前つきの歯ブラシ。

 

 

 

優雅で感傷的な日本野球

 

 

 

夜と霧。

 

 

 

めくらになって夢を見る。

 

 

 

黒塗りの街宣車

 

 

 

なぜこんなに生きづらいのか。

 

 

 

幸徳秋水

 

 

 

人間発電所

 

 

 

キューバ・リバー。

 

 

 

大いなる助走。

 

 

 

ジン・バック。

 

 

 

頼むから静かにしてくれ。

 

 

 

バッファロー・モッツァレラのマルゲリータ

 

 

 

3-4x10月

 

 

 

エチオピア

 

 

 

昭和期デカダン短編集。

 

 

 

ビッグイシューのおじさん。

 

 

 

傘を貸してくれた彼女。