管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

目覚めても虚構

池袋の新文芸坐イングマール・ベルイマンの映画を観た。この監督の映画は以前にも観たことはあったが、正直なところ、特別好きというわけではない。

 

ただ、映画が観たかっただけだ。

 

「映画を観に行く」という行為はまあまあ好きだ。そのくせ、「映画」そのものにはあまり興味が向かなかったりする。個々の作品としての「映画」も、概念としての「映画」も。

 

だから、自分で金を払っておきながら平気で寝る。今回も寝た。

 

映画館で眠るのは、読書中にうたた寝するのとは違った趣がある。

 

寝転びながら本を読んでいる。だんだん眠くなる。少し目を閉じようと思う。そうすると、一旦、本を開いたまま胸の上に置いておくか、あるいは、しおりを挟んでぱたんと閉じ、脇のほうにうっちゃっておくことになるだろう。

 

すると、自らと虚構との接続を、刃物で断ち切ったみたいに外すことになる。こちらから明確に扉を閉じて、はいまた今度ねと、現実へと後ずさりするようなものだ。

そうして、プラットホームみたいに一度現実に降り立ってから浅い夢へと乗り換えていくわけなのだが、目が覚めたあとは、どうなるか。

 

つかの間のうたた寝は夜の眠りと違って、記憶や自己の一時的な喪失を経ることなく一瞬で現実に押し戻される。頭が冴えてくるその前から、とりあえず早急に処理しておかなければならない些事だとか、今はどうにもならないけれど近いうちに解決を強いられる厄介ごとへの不安だとかが一気に押し寄せてくる。気だるい体に、容赦なく。これはもうたまらない。一種のバッドトリップだ。生きることが嫌にさえなってくる。

 

その点、映画はどうだろうか。

 

上映中、瞼が重くなってくる。首が傾く。カットの意図を追うのをやめる。細く、淡くなっていく視界の中で、せめて字幕だけは捉えようとする。それでも目を閉じてしまうが、大きな音や声が聞こえてきたら目を開けようと思う。仮に目を開いても、こいつ誰だっけと、登場人物を把握しきれなくなる。再び瞼を閉じる。やがて、意識の行方が分からなくなる。

 

そんなふうに、覚醒から眠りへのちょっとした旅路があるわけなのだけれど、映画は本と違って、こちらからアクセスを断たなくても勝手に事を進めてくれる。おれのことなんかお構いなしに世界が動く。

 

そして、目が覚めたあとでも、おれは虚構の前にいる。覚醒につきまとう目覚めの不快さと現実の不快さに同時に襲われないのは、おれにとってひじょうに健康的だ。健やかだ。

 

映画の中では相変わらず、誰かが苦悩したり辛酸を舐めたり悔恨にとらわれたりしている。映画の話を映画でたとえるのは無粋で非スマート的だが、ヒッチコックの「裏窓」みたいに、他人の生活や事件を好き勝手詮索しながら眺めるのは楽しい。それは、読書とは違って、こちらが起きていようが寝ていようが関係なく進行していく世界を覗いているからなのだろう。

 

どこか下卑ているような気もするが、そのへんは直視しないでおこう。映画だって、ちゃんと観てる気になっていても本質的には直視していないんだから。大抵。

 

それとベタ過ぎて書くのさえ憚られるが、これまで観た映画で一番深く眠ったのはタルコフスキーの「惑星ソラリス」だった。後半は何も覚えていない。いや、全部観たとしても変わらないだろうな。「ノスタルジア」も全然覚えてないし。