管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

ドラッグストアのシャーマン

断言をするほどではないが、基本的に、アイドルや女優といった「(程度の差こそあれ)商品性を内包している女性」を好きになれない。可愛い、とか、美人だ、といった感想を抱くことはあったとしても、好意や憧れは芽生えないのだ。理由? 知らない。多分こういうのを「生理的に云々」と言ったりするのだろう。

 

とはいえ、例外みたいなものはある。例えば、これ。

 


f:id:kizzmee:20200411185831j:image

 

こういう「美容・健康系商品のモデル女性」は、実はわりと好きだったりする。

 

ちょっと待て。お前はついさっき『「(程度の差こそあれ)商品性を内包している女性」を好きになれない。』とか言ってたじゃないか。やっぱりお前は嘘吐きだ。とうとう馬脚を現したな。死ね。死ね。人間のクズ。人様の足を引っ張りやがって。世間に詫びろ。今すぐ。

 

そう、確かにおれは矛盾しているようなことを言っている。でも違う。ちょっと聞いてくれ。

 

このひとのようなモデルたちも、間違いなく商品性を伴っておれたちの前に現れる。むしろ商品性の強さという観点で言えば、アイドル・女優なんかよりも強い。

 

でも、その商品性は「内包」はされていない。彼女ら「美容・健康系商品のモデル女性」は「商品それ自体の媒介」である。言い換えれば、商品の有用性や魅力を付託された「シャーマン」なのだ。

 

これは例えば、篠原涼子がキレートレモンの広告モデルになるのとは違う。この場合、キレートレモンの持つ「疲労がリフレッシュされそうな感じ」に、篠原涼子の持つ「アクティブで有能なキャリアウーマンぽい感じ」を相互的に包摂させることで、「毎日頑張っているあなたもこれで癒されて明日も頑張ろう!」というふうなメッセージを抽象的に伝えているのである。それは、イメージとイメージの掛け合わせとも言える。篠原涼子がキレートレモンの広告塔を務めている根拠は「有名だから」だけではない。わざわざ言うのも恥ずかしい、広告の基本だけれど。

 

しかし、先の写真のようなモデル女性は、何のイメージも持ち込んでいない。どこの誰なのかも分からないほぼ匿名の存在だということもあるが、今の例で挙げた篠原涼子とは真逆に、商品に対して意図的にイメージを与えていない。強いて挙げれば「健康で何も病を抱えていなさそうな感じ」を受け取ることができるが、それは、商品の有用性と魅力を阻害しないために消去法的に選ばれた個性でしかない。彼女の仕事は、商品に対して徹底的に「付託される側」に回ることだ。言わば、究極的に空虚。「役者はどこまでも空虚であるべきだ」というような考え方があるが、女優ではない、彼女ら「美容・健康系商品のモデル女性」がそれを体現している。とことん空っぽであるところに神性さえ感じて、惹かれる。

 

結論。空虚は魅力である。そんなにユニークなことは言っていない。

 

でもそれは結局のところ、純粋性や無垢性への崇拝と大差ないんじゃないの? 「ピュアが一番!」とか、海が干上がるくらいに気持ち悪いなお前。だからお前はいつもいつも女に「見切られる側」なんだよ。生きてて楽しいの?

 

うーん。そう問われてしまうと、うまくアンサーできない。でも、純粋性や無垢性への崇拝は、少年・少女愛へと結びつきやすい。一方おれは、ガキはかなり苦手だ。というか怖い。

 

そういうことだ。今はそれで納得したことにしてくれ。