管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

アホアホ議会制民主主義2019(参院選にあたって)

 

ポリタス』に今回の参院選政見放送の書き起こし記事がアップされていたので、とりあえず全政党分を読んでみた。

投票には今回も行く。そして月並みだけど、色々思った。ここに何か書いてみようかとブログを開いたものの、どの切り口から書こうとしても頭がごちゃごちゃするし、自身の無知や教養の低さにも一々ぶちあたる。足取りが悪い。だから、最終的にはかなり要領の悪い文章になるだろう。

それでも、分からない分からないともたもたしていたら瞬きしてる間に選挙が終わるので、今書けそうなことを半ば強引に書いておこうと思った次第だ。どこかの夜。

 

さて、私たちはよく「当事者意識」ということばを耳にするし、たまに言ったりもする。

……いやあ、初っぱなからえらく観念的じゃないか? なんか違うな。こういう導入になると、現状の筆力ではほぼ確実にガス欠を起こす。もっと個人的な感情に即して、視座を低くしてみよう。つまり、こうなる。

さて、おれは常々思っている。「肚の内がどうであれ、肝心な時に黙って座っているのはクソだせえ」と。えらくマッチョイズムに凝っている物言いかもしれない。今時古いか。でもいい。これはおれからおれへの訓示だ。24時間365日つきまとう訓示。重い。

そしてもうひとつ。これは訓示というよりは自戒だけど、「おれはアホだからすぐ間違えるし、それどころか自分がアホであることにさえにも気付けない」。なぜそう思うかって? それは単におれは自分がアホだと思いたがらないし、間違いも認めたがらないからだよ。それだけ。自分をアホだと思ってなくて、かつ自分の間違いを認めないやつほどアホなんですよ。

 

さあ、そんなおれが投票行動なぞしたらどうなるか。きっと、アホな政党のアホな候補者を選んで、アホな政策を支持して、アホな法案を通すのに加担してしまうのだろうな。ああ、ろくでもない。アホアホマン助けて!

であるならば、アホなおれは、やっぱり投票はおろか政治参加なんてせずに暮らしていったほうが良いのだろうか。アホだから、手取り15万円で従順に長時間働いて、休日にはどっかの広場でスマホの中のポケモン捕まえて、社会保障費が上がれば真っ先にメシ代を切り詰めて、ある日ネットで見かけた「ナントカ改正法が賛成多数で可決されました」なんてニュースには、デカ盛りカップ麺食べながら「野党がだらしないからよ」とかしたり顔で言っているほうが良いのだろうか。アホだから。

うんそうだ。おれアホだからなんか政治っぽいことはみんな他のひとたちに任せよーっと。

と思って周りをキョロキョロ見渡してみたけれど、おれの近くには同じようにキョロキョロ視線をあちこちに向けているひとと、目を伏せて黙っているひとしかいなかった。こうしてわたしたちは「いない人々」となりました。めでたしめでたし。

 

投票率をここまで低くしたのはいったいどこの誰なのだ?

 

おれはアホだから、未だ愚直に議会制民主主義をアテにしている。衆愚政治で上等。おれは衆愚のひとりだ。そして衆愚はアホだから間違える。アホなりに頭ひねってアホなりにデータを検証しても、結局間違ったひとを選んでしまう。

でも、そこからが肝要だ。

たしかに民主主義は間違える。

でも、ひとりひとりが「みんな」の間違いを「わたしたち」の間違いとして引き受け、地道にリカバリーをしてゆける余地を残してくれるのもまた民主主義ではないのか。というか、民主主義というシステムそのものが、はじめからある程度の間違いや逸脱可能性を織り込み済みで制度設計されているのではないのか。

わざわざ太字にしたけれど、おれは独力でこんなこと言えるほど賢くはない。どっかの受け売りである。つまり耳学問

ある建物に、ある共同体が住んでいるとする。ある日、その建物のどこかに欠陥が見つかった。その時「わたしがその管理運営に少しでも関与しているか」という意識があるか否かで、共同体の構成員たちの選択する態度は大きく異なる。そして、その建物自体の寿命に与える影響も大きく異なる。

……あれ、たとえが上手くなかったか。なんか分かんなくなった。やっぱおれアホだわ。要はこう言いたかった。

実際の建物であれば、管理会社に電話して「おいどうにかしろや」とがなり立てれば業者のおじさんがやってきて「はいはい、ああ配水管が古くなっちゃってますね。別の業者に明日修理に来させますよ。ひとまず応急処置はしておきます」と、解決までのあらゆる用意をテキパキ遂行してくれるかもしれない。

でも、実際におれたちが暮らしている社会は違う。とりあえずいま民意の代表ってことになっている為政者というのは、あくまでもおれたちの代弁者でしかない。電話すればすぐ駆けつけてくれる業者のおじさんでもないし、ましては絡まりに絡まった糸を一挙に解きほぐしてくれる全能のデウス・エクス・マキナでもない。為政者に対抗する為政者だって同じだ。代弁者に何も言わなければ、そいつはただの空のコップ。

白馬の王子様なんか待ってんなよ。

ヒーローっぽく登場したやつだって大抵おれたちと大差ないアホアホマンでしかないんだから、責任を丸投げしてたらおかしなルールをつくられてしまうかもしれない。おれたちの金で。

おれたちの国と社会がおれたちの金で回っている以上、おれたちは絶対に当事者である事実からは逃れられない。それは、面倒で煩わしいことなのだろうか? 厄介で難儀なことなのだろうか? 

そうだろうな。でも、おれはそれで構わないと思っている。どのみち間違える可能性を孕んでいるアホな選択をするのなら、他人よりおれが決めるほうが5億倍マシだ。他人の間違いの尻拭いをするのは嫌だけど、おれのケツはおれが拭く。共同体の構成員みんなが「みんなごと」を「他人ごと」ではなく「わたしたちごと」として引き受けて欲しい、そう願って先人たちは血を流して民主主義を選んだのではないか。

ちょっと調べれば分かることだけれど、いまおれたちの足元を支えている「制度」や「権利」といったものは、それが大きく根本的であるほど獲得されるまでに多くの血が流されてきた(それこそ民主制や人権など)。

血、がだ。

ここでおれが投票に行く理由を(誰にも訊かれてないのに)答えるならば、それは「ある種の大人たちに褒められるから」といった外発的動機でも「投票権は使わないともったいないから」といった損得勘定以上に、社会の成員としての「過去への想像力の涵養」を自らに課しているからである。

……という第二弾のセルフ訓示。両肩が重い。

とにかく、こう思う。なぜ、おれたちがファミマでサラダチキンを買うのと同じくらいの手間でお気軽に投票ができる現行制度のために、かつて我が身の血を流した人々がいたのかと。

おれにはあんまり難しい本は読めない。もの覚えだって良くないし、教養も低い(大学出てないし)。今だって、不意打ち的に衆議院参議院の違いは何かと問われれば、確実にしどろもどろになる。ついでに体裁の整った文章も書けない。中学の頃から自覚してる。

でも。

でも、想像と体験だけはできる。

おれが何かを考えたり知ったりするためには、アクションという手続きを踏むしかない。幸か不幸か、根本的に机の上の人間ではないのかもしれない。

だから民主主義について考えようと思ったら、民主主義に参加するしか手がない。先人たちの血の色を知るために。

 

そして衆愚をレペゼンし、シューズを履いて街に出る。

 

民主主義 (角川ソフィア文庫)

民主主義 (角川ソフィア文庫)

 

 


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