管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

峻別からはじまるもの――または、もう孤独なのかも!

実家のマンションの近くに、小さな保育園がある。

ちょうど一年前、近所の川沿いで職員さんの名札が落ちていたのを発見して、それを届けに行った。そのときお礼を言ってくれた保育士さんの溌剌とした笑顔が良くて、お世辞にも整った容姿のひとではなかったけれど、とても魅力的だと思った。

さて、そんな保育園の入り口前に、こんな紙が貼り出されてあった。


f:id:kizzmee:20191215162725j:image

まあ要は「ガキがうるせえってクレームがありました」ということなのだけれど、なんだかやるせないが、この頃はこのテの苦情は「よくあること」なのである。

 

率直に言うと、おれはこの「よくあること」にはまったく与する気がない。なぜかというに、いい歳した大人(かどうかは知らないけど)が保育園、幼稚園、小学校に「ガキがうるせえ」と難癖をつける行為は、自らが「共同体の成員」であることの放棄を宣言しているに等しいからである。

自分で偉そうに持ち出しておいてなんなのだが、「共同体」とはとても曖昧で難しい枠組みである。いったい何だろう。極端に一般化された言い方をすれば「地域住民」や「コミュニティ」ということになるのかもしれないが、いずれにせよ、狭量的な身内意識からより視野を拡張させた「よく知らない他者への包摂意識」を内包しているのだと思う。いま思った。

ややこしい言い回しをしてしまったが、つまり、子ども、老人、病人、障碍者、外国人もひっくるめた隣接する他者を「他人だけれど他人じゃない」と認識できる人々によってローカル(必ずしも地域だけを意味しない)が担保され、また、そのローカルを担保しようとする振る舞いを自然的に日常に取り込めている人々が成員として一定数存在している状況がこそが「共同体」なのではないか。

「共同体」とは、存在ではなく状態なのである。

 

保育園の子どもを騒音発生装置として認識してしまう人々がいるとするならば、彼らは、隣接する他者を「気に食わないけどなぜかそこにずっとあるもの」として峻別しているのではあるまいか。分断は峻別からはじまる。「おまえもガキだったやんけ」と言いたいところではあるが、もう、そういった言葉は届かないところまで来てしまっているのかもしれない。みんな孤島に生きている。

 

さてどうしたものか。カート・ヴォネガットの小説みたいに、みんなが家族になっちゃおうか。