管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

『管理社会VSシーフードカレー』ゴールデン★ベスト(Disc1)

非正規労働者というのは、ほんとうに、悲しくなるくらいに弱い身の上なのだと思う。つくづく。

また仕事の話をするのか、と自分でもげんなりする。ブログ概要には一応おれが劇団活動にも身を置いていることも明記しているはずなのに、劇団の話なんてぜんぜんしていない。でもまあ、それはそれで問題にはしていない。芝居や演技という行為そのものが感情の発露のひとつであるのだから、今さらここで、舞台に立ったことついて感情の波に乗せながらあーだこーだと書き連ねるのはナンセンスな気がする。というかおれ、そこまで書けるほどの経験も実力もないし。

 

さて、なぜおれがここで白紙を取り出したかというと、端的に言えば、職場で社員から心底つまらなく不可解なイビりを受けたからだ。腹の奥が沸々としている。

そしていま、衝動的に、そして激情的にこの文章をスマホの液晶に落としている。しかしおれは、おれが被った労働現場の理不尽について、特定の個人を指しながら糾弾することは決してしない。おれが中指を立てる相手はあくまでも個人ではなく構造だ。これは、おれが自身の尊厳を守るための薄っぺらい堤防である。

それにしても指がかじかんで思うように動かない。書けない。手が言葉に追いつかない。でもこの感覚には覚えがある。夢の中で誰かを殴っているときだ。なんでこんなに寒いんだよもう。

 

非正規労働者は弱いと、おれは言った。ならば強さとは何か。非正規雇用が弱いのならば、とっとと正規雇用の「いい仕事」に従事して、出世のためのイス取りゲームに勝ち残り、部下を顎で使って、スーツを脱げば模範的優良消費者として自由市場社会のメインストリームに腰を下ろすことなのだろうか。

違うね。

位の高い労働者であること。よりカネをつかう消費者であること。たしかに職場と市場において行使する力量が大きければそれは一種の「強さ」に見えるかもしれない。

しかしその「強さ」は、ここでおれが言いたい「強さ」とは違う。

職場で振るう権勢も、消費のための小金も、みな立場や境遇に付随しているだけの「身の上の強さ」でしかなく、人間存在そのものから発現している「身の内の強さ」とは一線を大きく画すものだ。

カギガッコ入りの言葉なんかをいっぱい使ってみせて(しかも太字!)まるで新たな提言を試みているような語調かもしれないが、子どもでも知っているくらいのシンプルな話をしている。むしろ大人になるにつれ忘れてしまうからこそ、たとえ誰も読まなくてもここで書いておかなければならない。おれよ、頼むから忘れるな。

 

強く在る。なるのではなく、在る。

先ほど言った「身の内の強さ」とは、世俗的上昇によって獲られるものではなく、むしろ反世俗的ともいえる、内的あるいは精神的営為によって獲得されるものと考える。内的あるいは精神的営為とかいうと瞑想や禅の類いを想像するかもしれないが、べつになんだっていい。そんなの人の数だけある。要は世俗に身を置く自己を相対化させ、また、世俗への適応によって磨耗させられる心的エネルギーの有限性を自覚することが肝要なのです。

……こうあんまり理論めいたハナシを頑張ろうとすると、すぐにボロが出て頭悪いのがバレるので、もうやめる。「~的○○」が頻発すると警告サインだ。仏教でいう「戯論」のように、実践にとってはまったく無益で空疎なリクツである。とりあえず歌うか踊れよ。仕事中に。仕事中に歌うか踊るとな、すごいんだよ。遊んでる自分じゃなくて、黙って仕事してる周りの連中こそがアタマからっぽで人生ナメてるように見えるんだよ。

でも、場面や文脈を問わず、こういう世俗的価値観の逆転を経験した人間は、じつはかなり世俗の中でもタフになる。黙って仕事をしている内は自分こそが真面目で誠実に人生を生きていると思うのに、ひとたび仕事中に歌って踊れば、正反対のベクトルに向く同一のエネルギーで、いま歌い踊る自分こそが真面目で誠実に人生を生きているんだぞと思う。矛盾している。相対するふたりの人間が己の中に住まう。コインの表裏の同時的顕在。諧調と乱調の混濁。辛そうで辛くない少し辛いラー油

矛盾していることはたしかに厄介ではある。しかし一撃では死なない。かえって、世俗に適応したいが為に一貫性だけを後生大事に抱きかかえ、そこに相反していたはずの様々な疑念、あるいはその一貫を揺さぶろうとする外界の倫理を「非効率」として剪定してしまうほうが、生存戦略としては愚策でさえある。剪定の先では、一体どのような自分がこちらへ手招きをしているのだろうか。ある食物Aが繁茂しているからといって、肉体そのものを食物Aのために適応させ過ぎてしまえば、食物Aの喪失がそのまま自身の喪失に繋がる。単一の倫理や物語の中に身を浸して生きているのは、毎日全く同じメシを食らっているに等しい。

世界はままならないという事実を、おれたちはすっかり忘失しているのではあるまいか。ヘラクレイトスのパンタレイを。あるいは釈迦の諸行無常を。

あっ、またリクツに走った。↑の一文とかすげえ頭悪そう。もう言わない。バカがバレる。

 

矛盾を抱えて生きることは、実はとてつもなく快活で躍然とした生き様なのではないかと思う。たったいま思いついた。言ってることが昨日と違う。言ってることとやってることが違う。ひとりの中でいろいろ違う。すごいぞ。自身の過去を覆し、自身の未来を挑発する。おれがおれに向け革命の刃を振るい、剣戟の火花が全方位のおれにいとまなく飛び散る。矛盾は自己闘争だ。矛盾しろ。一貫するな。辻褄を合わせるな。ダブルスタンダードでいけ。気よ、変われ。

人間の強い在り方とは、矛盾を矛盾のまま抱え生かし、自我の孕む多面性を立体的に光華させることである。

非正規労働の話とかは忘れた。どっかに行った。もうなにも思い浮かばん。わざとやってるんじゃない。おれの脳みそは常にひっくり返るようにつくられている。だから商業Webライターの仕事が続かなかった。ひっくり返る脳みそを持つ人間に、クライアントの発注どおりの文章が書けるか。「君の文章はねえ、読むのにアタマを使うんだよ」だってさ。はいそうですか。じゃあ一緒に白痴にでもなりますか。でもあんたの白痴とおれの白痴は違うからな。

その違い、今から見せてやんよ。

 

おっ         おっ

 

 

おっ

 

 

(田の中にテニスコートがありますかい?

春風です

よろこびやがれ凡俗!

名詞の換言で日が暮れよう

アスファルトの上は凡人がゆく

顔 顔

石版刷のポスターに

木履の音は這い込まう)

 

中原中也詩集 (新潮文庫)

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