管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

ぼくの傘を持っていかないでください

神田にある小さなラーメン屋で豚骨ラーメンを食べた。雨ふりの午後二時過ぎ、いくらか遅めの昼食だった。

替え玉を一玉だけおかわりし、スープは少し残す。そうして小さくごちそうさまと言い、席を立つ。出口で傘立ての傘を取ろうとする。

しまった。

おれの傘がない。おれの65センチビニール傘がない。持っていかれた。思わずごちそうさまと同等の声量で「やられた」と発してしまい、定員のお姉さん(けっこう可愛い)がこちらを一瞥した。お姉さんは即座におれの受けた仕打ちを理解したはずだが、かといって今さら打つ手立てもないので、おれに言葉を投げかけることなくそのまま厨房の奥に去っていった。「私に言われても困りますからね」と無言で言われた。黒いバンダナからゆらりと垂れる金髪のポニーテールを、おれは見送った。

 

この世界では、ビニール傘を誰の所有物でもないと認識している勢力が密かに跋扈している。彼らは平時こそ地下に潜り表立った行動は謹んでいるようだが、ひとたび雨が降れば手ぶらで地上へと繰り出し、コンビニや飲食店の傘立てに置かれている人様のビニール傘をせっせと回収する。

とある有識者の見解によれば、大量生産される工業製品の代表格であるビニール傘を素体にし、あらゆる秩序紊乱をAIにプログラムした暴走破壊兵器を量産することで、平等を騙る欺瞞と虚飾に満ちた現代高度資本主義社会の破壊、及び、国境という名の虚構によって地球市民たちに精神的幽閉を強制し真の世界融和を阻害する国民国家の転覆を企てているのだという。ソースはNAVARまとめとTogetterと保守速報。

くくく、しかし甘かったなゴキブリどもめ。こんなこともあろうかとおれのビニール傘には指紋と静脈による二重認証装置が施されており、おれ以外の人間が柄を握ろうものなら20分後に爆発するよう仕掛けてあるのだ。その威力は、半径3メートル以内の物質全てを灰に帰す。もちろん、見た目では普通のビニール傘と何ら変わりはない。聞けばおれの他にも傘に時限爆破装置を搭載させている者がいるそうじゃないか。

 

でもな、おれだって好きでこんなことをしているんじゃない。誰かに傘を持ち去られてしまえば、次は自分が他の誰かの傘を持ち去らざるを得ない。すると次に傘を持ち去られた誰かが、また誰かの傘を持ち去る。これでは輪廻ではないか。やむを得ずパクったカルマまみれの傘なんかでは、天候としての雨は免れても心の雨にはいつまでも降られてしまう。こんな悲しいことってあるか。おれの傘を持ち去った人間だってまた被害者なのかもしれない。だからこそおれが誰かを爆殺して傘の輪廻から解き放ち、不幸な盗難のないニルヴァーナへと導いてやらねばならない。これは無明に生きる衆生への救済である。

 

とは言ったものの、これからどうやって家に帰ろうか。ここで誰かの傘を持ち出すわけにはいかない。駅まで雨に濡れながら走るか、それとも近くのコンビニで500円の出費をするか。そうして途方に暮れていると、厨房の奥から店員のお姉さんが戻ってきた。

「あの、これ誰も使ってない傘なんで、よかったらどうぞ」

そう微笑んで、白いビニール傘をおれに差し出してくれた。

おれの顔面が弛緩した。うれしい。かわいい。おれは舞い上がって「ああっした」と滑舌さえも緩んだ礼の言葉を言い、少しでも長くお姉さんに視線を残しながら店を去った。いやあ、いいことあった。たぶんくれた傘なんだろうけど、あとで返しに行けば喋るきっかけができるぞ。いや、返さなくても感謝の言葉から会話に繋がるはずだ。次お店に行くのはいつにしよう。あまり早すぎるとあからさま過ぎるか。でもあまり間隔が開きすぎると忘れられてしまうかもしれない。無難に来週あたりにしておこうか。おれは水たまりをものともしない勝利者の足取りで駅へと向かった。

 

20分後、おれは都営新宿線本八幡行き4号車とともに消し飛んだ。