管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

ブラック企業とか、転職とか、生きる力とかについて

おれの働く工場に、新入社員Nさんがやってきた。中途採用だ。

 

かなり細身の男で、歳はおれと同じくらい。言葉遣いは丁寧だけど、語気がやや角ばったしゃべり方をする。それに遊びのない黒縁メガネも相まって、堅物っぽい印象さえも受ける。でも、腰も低いし大人しいから、きっと緊張しているのだろう。

 

ここに来る前のNさんは、とあるつけ麺チェーン店の経営会社に勤めていたようだ。聞けばなんでも、一日の総労働時間が常軌を逸する長さで、毎日のように早朝から深夜まで働いていたらしい。十把一絡げで乱暴な括りなのは承知だが、飲食業界ならば「よくある話」だと思った。それにしてもよく生き残ったな。

 

ところで。

 

正社員として入社したNさんとは対照的に、おれの現在の雇用形態はバイトだ。劇団活動をなんとなく言い訳にしているが、社員として就職できない特段の理由はない(学歴と職歴上、就活でかなりの不利をこうむるが)。ただ単に、自由なシフトや、残業を拒否できる権利などの「いくらかの身軽さ」のために、非正規労働者という立場に身を置いている。収入とセーフティネットと若さを引き換えにして。

 

もちろんこれは、「あいつは正社員で羨ましいなあ」とか「おれはバイトだからあいつより気楽に働けるぜ」みたいな話とは違う。優劣ではなく、ただの相違だ。いや、将来の安定性とかを加味すれば優劣があるということになるのかな。

 

まあどっちでもいいや。

 

ともかくとして、晴れてNさんは人権無視なんて朝飯前のブラック企業から、わが工場へと見事転身を果たしたわけだ。

 

見事転身を果たしたわけだ。

 

見事転身を果たしたわけだ。

 

……。

 

8Bの黒さから、4Bの黒さに。

 

古今東西往古来今、現実はいつどこから触れても非情だ。群盲現実を撫でても、きっと誰もが異口同音に「現実とは非情なものです」と答えるに違いない。

 

すまん、それは言い過ぎた。いいことだってあるよ。

 

話を戻す。

 

Nさんがかつて勤務していた会社が紛れもなき「どブラック」であったことは疑いようもない事実だ。でもうちの会社(工場)も、なかなかの黒さが社員たちから好評を博している(もちろん皮肉だ)。通常稼動の製造日でも長時間の勤務が常態化しており、年末の繁忙期になればそれこそ「早朝から深夜まで」働くことを余儀なくされる。

 

それでもNさんは、「前より全然マシだから良い」と言う。

 

なるほど。

 

彼は今まで毎日その身体をムチで百叩きされる環境にいた。そこから、七十叩きの環境に身を移した。叩かれる回数が三十回少なくなれば、痛みも傷も相対的に少なく感じるだろう。あるいは生易しく思えるかもしれない。それでも、いや、だからこそ、七十回のムチ叩きを「全然マシ」と言ってしまうNさんが不憫でならない。

 

「不憫でならない」。なんと傲慢で不遜なもの言いだ。おまえは何者なんだ。

 

うるせえな分かってるよそんなこと。でも、そう言わざるを得ないくらいに、Nさんの境遇はやりきれない。彼にとっての「より良い環境」とはあくまで相対的なものであり、それはすなわち「ムチで叩かれることがない」環境ではなく「ムチで叩かれる回数が少ない」環境であったということなのだ。

 

べつにおれは、「あいつは馬鹿だからそう思っていて、おれは賢いからそう思わないはずだ」と言いたいのではない。

 

おれだってNさんと同じ道を辿れば、間違いなく彼と同じように考え、彼と同じような皮膚感覚が身につくだろう。相変わらずムチで叩かれるけど、回数が少ないから全然マシだと。だからこそやりきれないのだ。おれにとってNさんは、というか、過酷な環境で働かされている同世代の人間は全員「そうなるかもしれなかった自分」だ。そして同時に、これからそうなるのかもしれないのだ。

 

べつの社員がこう言った。このひともおれと同年代だ。

 

「うちはブラックだと思うけどさ、かといって完全なホワイト企業なんてのもどこにもないよ」

 

たしかに、きっとそうなのだろう。世の中の企業には純な黒もなければ純な白もなく、すべてはグレーであり、その濃淡が問題なのだと。その摂理(?)には、特に異論はない。

 

でも、それで良いのだろうか。おれには先の社員の言葉が、「順応こそが現状の最適解なんだよ」というふうにも聞こえてしまう。それは、おれがあまりにも理想を求めすぎているからなのだろうか。

 

嫌で苦しいことはなるべく回避して生きているおれでも、理想郷を求め安直な転職を繰り返したり、労働から逃げたい一心でプランの不鮮明な投資に大枚をはたくことが良策だとは思っていない。かといって、過酷な今を現状追認し、ただの諦めをクレバーな態度と履き違えて苦役に耐える振る舞いが正しいとも思っていない。もちろんおれのように、明確な夢も目標もないくせにフリーターを続けている怠惰な生き方も。

 

ならば、どうすればいいか。

 

おれにはわからない。

 

なんだ、大言を吐いたわりには自分でもなにもわかっていないじゃないか。

 

そうだよ。でもおれは「どうすればいいかわからない時にどうすればいいか」を考えることこそが、人間の生きる力であると信じている。少なくとも、自分を騙して理不尽な労働に身をやつすことに、生きる力は存在しない。生きたいと願う力が躍動する余地なんてどこにもない。「わからないでいる自分から目を逸らすこと」を「わかった」とは呼ばない。

 

これを「自分探し」なんて手垢まみれ大腸菌まみれの紋切り言葉で片付けようとすんなよ。