夢に眠る現実と私
その日、井上ひさしと夕方の4時に食事の約束をしていた。待ち合わせ場所に向かうおれだったが、そこであることを思い出した。
そうだ、同じ時間に松田優作とも食事の約束をしていたのだった。
ダブルブッキングだ。
途方にくれたおれは、小学生の頃よく通っていた古本屋で『キン肉マン』を読むことにした。
一昨日見た夢の話である。
それにしても、夢の話というのは誰の口から聞いても面白くない。面白いときがあるとすれば、それは話者の語り口の面白さである。
夢が荒唐無稽であることなんて誰もが知っている。だから荒唐無稽な夢の話をされても「ふーん」と右の耳から左の耳へとすぐ通過させてしまうか、あるいは「それはフロイト的に言うとね、君は幼少期に父親から性的虐待を受けていたんだよ」とか言ってしたり顔で手持ちの精神分析知識をかき集めてみせるしかない。
人が虚構にリアリティを求め、また現実にフィクション性を求めるのとなんだか似ている(夢と虚構は違うけど)。
では逆に、あまりにも現実めいた夢を見たとしたら、人は面白がるのだろうか。
たとえば、こんな夢があったとする。
重い瞼をこじあけで、朝6時半に起きる。身支度と同時にコンビニの惣菜パンをかじり、満員電車に飛び乗って出勤する。ここで他者の存在を感じ取ってしまうと、こころが破裂するだろう。私の耳を塞いでくれるのは宇多田ヒカルだけ。
いつも通り仕事をするが、自分が作成した請求書に誤字があったとして同じ部署のお局にチマチマいびられる。早くくたばればいいのに。昼食はオフィス常備のお菓子ボックスの糖分だ。グリコのビスケットと、カロリーメイトのメープル味。ほんとうはチーズ味が良かったけど、メープルしかなかった。
午後はなんとか滞りなく業務をこなすが、そもそも割り振られている仕事量が定時に終えられる量ではないので、やっぱり今日も残業する。
薄暗くなったオフィスで、ふと転職のことを考える。でも転職活動が面倒だし、それに転職したところで今より良い職場に行けるか分からない。というか、どうして私はここにいるのだろう? 私はこうなることを望んだのだろうか? でも考えただけでどうにかなるものではないので、野菜ジュースで胃袋を誤魔化しながら今日も黙って仕事を終える。
家は真っ暗で、洗濯物と洗い物だけが私の帰りを待ってくれている。ローソンで買った豚キムチチャーハンをチンして食べる。テレビでは遠い国の爆破テロが報道されている。右目を失った少女。
さっさとシャワーを浴びて寝支度に移る。洗い物も洗濯物もそのままだけど、誰かのツイートには「いいね」をする。
おやすみなさい。誰でもいいから、私を見つけてください。
早く。