管理社会VSシーフードカレー

いくつもの時代にわたる管理社会とシーフードカレーの戦いを描いたオムニバス映画です。

「ナメんな」っていうと「ナメんな」っていう。こだまでしょうか、いいえ、ケンカです。

「もうそこそこ慣れているつもりだけど、やっぱりどこか至らない点というか、自分の欠点や不得意に気づけないところってあると思うんだよ。だからもしおれにダメな部分があったらさ、そこは遠慮なく言ってほしいんだよね」

 

そう言えるひとと、言えないひとがいる。

仕事の話である。

 

おれはかなり「言えない側」の人間だ。そして、おれに対する直接の指揮・管理権を持っている何某さんも、おれに負けず劣らずの「言えない側」だ。

おれや何某さんに限ったはなしではなく、たぶん大抵の「言えない側」の人々は、自覚に程度の差こそあれ、心のどこかで「相手に(特に自分より立場が低い相手に)ナメられたら終わりだ」という歪んだ矜持を抱えて生きている。いわゆる「育ち」がそうさせたのかもしれないし、あるいはいま現在身を置いている組織の阿諛追従型ヒエラルキーが、そのような態度を暗に強いているのかもしれない。

 

ただどちらにせよ、実際には「相手にナメられることを過剰に恐れている人間」ほどナメられやすいという事実が顕然とあり、おれたちはそれをよく知っている。

そこにはやはり、おれたちが他者を見る際における「人間としての度量」への査定比重がかなり影響しているのだろう。器、というやつである。器がデカい奴ほどリスペクトされるし、一方器が小さい奴ほどナメられ、休憩室とかで陰口を叩かれる。あまりにもありふれたことを書いてしまったが、本質に迫っているからこそ、認識としてありふれているのだと思う。

 

皮肉なはなしだけれど、もし相手にナメられないための最も効果的かつ実際的な態度があるとすれば、それは「相手からナメられる可能性を許容する態度」なのだろう。

何度考えてみても同じ回答に行き着く。自分より年下で立場が低い相手にも謙虚で寛容な態度を一貫できる人間と、その場の下位者に常にマウントを取り続け、少しでも意見を言われようものならヒステリーが如く機嫌を損ねる人間、一体どちらを敬いたいと思うのだろうか?

 

なんか、今日は驚くほど退屈なことを書いてしまった。

というのも、昨日、おれと何某さんとの間で軽い火花が散った。きっと、お互いにナメられたくなかった。悶々とした感情を残してしまったのでここになにか書き連ねようと思ったが、それこそ休憩室のように一方的に悪口をまくし立てるのはフェアではない(そしてクソダサい)ので、こんなふうに一般論をわざわざ持ち出して、なんとか相対性を保とうと試みた。結果、余計に悶々となった。

 

いっそのことなら、気持ちよくケンカしてしまったほうが良かったのかもしれない。ケンカを肯定するつもりはないが、いちど明確に対立を可視化させてしまえば、あとは「落としどころ」を見つけるだけで済む。無論、本人たちの意思と努力次第ではあるが。

いまのようにケンカが未遂状態で停滞すると、ネガティブな感情が密室の中で燻るだけだし、もし何かを謝ろうと思い立っても、簡単に切り出せない。

 

「ケンカはしていない。だから謝ることは出来ない」

 

おれはたった今、この理路を採用した。

 

ナメられることを常に恐れている人間は、このような回路でモノを考えるのである。サンプルにしてくれ。