白いモノリスfeat.トルストイ(ラム&コカ・コーラRemix)
書きたいことが特にない。
でも、とりあえず白紙の前に立っていれば、何かが語られるような気がした。モノリスに触れるサル。午前三時。ラムとコカ・コーラ。求不得苦。
書くことが、好きで得意なときと、嫌いで苦手なときがある。今はどちらなのか分からない。達成した喜びと、苦痛から解放された喜びの違いが判らなければ、一生、首輪に気づくことが出来ない。自発的だろうと、面従腹背だろうと、首輪に繋がれながら誰かの靴を舐めている以上、イヌはイヌだ。
こうして待つ。何でもいいから来い。降りてもいい。降ってもいい。アルコールはおれをどこかへ連れて行ってくれるのか? そして、主題とは?
今日も今日とて、実感する。相変わらず、効率と合理に嫌われている。あらゆるものが抽象的かつ断片的で、側面と側面と側面しか見えない。
主題とは?
主題とは?
トルストイの小説で、神の仰せに背いた天使が、こう言っていた。「人間には、自分の肉体のためになくてはならぬものを知ることが、あたえられていないのです」。
己にとって不可欠なものほど見えていない。どこに眠っているのかも、どう探し、どう起こしてやればいいのかも分からない。答えみたいな顔をしている答えほど、答えではない。ある曹洞宗の禅僧は、問いを問いのまま胸に抱き生き続けることの重要性を説いた。
もう、寝ようか。問いを問いのまま、夢に持ち込もうか。明日は、友達と会う。
友達。
ヒー・ダズント・ライク・アレコレ
スポーツは好きだけど、体育会系は嫌い。
男気は好きだけど、男社会は嫌い。
勉強は好きだけど、授業は嫌い。
先生は好きだけど、教師は嫌い。
コミュニティは好きだけど、軍団は嫌い。
コミュニケーションは好きだけど、つるむのは嫌い。
ひとりでいるのは好きだけど、ひとりぼっちは嫌い。
酔うのは好きだけど、素面から逃げるのは嫌い。
自己嫌悪は好きだけど、自己憐憫は嫌い。
成熟は好きだけど、老衰は嫌い。
伝統は好きだけど、因習は嫌い。
品位は好きだけど、マナーは嫌い。
倫理は好きだけど、道徳は嫌い。
責務は好きだけど、義務は嫌い。
良識は好きだけど、常識は嫌い。
思いやりは好きだけど、気配りは嫌い。
もてなしは好きだけど、おもてなしは嫌い。
退屈は好きだけど、空虚は嫌い。
恋愛は好きだけど、駆け引きは嫌い。
褒めるのは好きだけど、口説くのは嫌い。
遊戯は好きだけど、遊園地は嫌い。
現代的なのは好きだけど、今風なのは嫌い。
考えごとは好きだけど、頭を使うのは嫌い。
書くことは好きだけど、ライティングは嫌い。
嘘は好きだけど、嘘臭いのは嫌い。
フィクションは好きだけど、欺瞞は嫌い。
終えるのは好きだけど、まとめるのは嫌い。
ジョン・レノンと火星人と示唆
少し前に作成した記事『監視社会VSシーフードカレー』のタイトルが妙に気に入っている。ただ単に高橋源一郎の『ジョン・レノン対火星人』っぽいから好きなだけだろうが、一見相関の無さそうな名詞を対立させたらなんとなく示唆的になるのは面白い。
ためしにいくつか考えてみる。
『柿の種VS西ドイツ』
『ビンチョウマグロVS高浜虚子』
『志村けんVS高床式倉庫』
『猫VS労働基準法』
うーん。ざっと並べてみたが、いまいち示唆を感じない。『志村けんVS高床式倉庫』と『スズメバチVS天皇制』はまあまあ面白かったと、世界中でおれだけが思っている。『関東平野VSティファール』が最も救いがたいクソだった。画が安易に浮かび過ぎるのも、浮かばなさ過ぎるのもダメということか。系統でいえば『長嶋茂雄VSしょくぱんまん』が一番『ジョン・レノン対火星人』に近いかもしれない。
まあ、死ぬほど無益な自己採点はこれくらいにして、『ジョン・レノン対火星人』というタイトルが面白いのは、「一見無関係に思える名詞の対立」かつ、「『実在している(していた)固有名詞』と『実在するか(していたか)分からない、固有名詞なのか一般名詞なのかも分からない名詞』」の組み合わせだからなのだろうか(カッコが多くて読みづらい)。だとしたら、『長嶋茂雄VSしょくぱんまん』よりも『長嶋茂雄VSビッグフット』ほうがより示唆的で面白く思えるか。いや、そんなことなかった。
示唆って難しい。
ちなみに、示唆のはなしをしているのだから、当然『ジョン・レノン対火星人』においてジョン・レノンと火星人は戦わない。
好きだったK君の失踪について
今まで自分の仕事に関しては一切言及してこなかったが、現在、冷凍ピザの工場でアルバイトをしている。特に説明すべき理由はない。ただ、色々なところでうまくいかなくて、今ここに流れているだけの話だ。
では、なぜ仕事の話をしようと思ったのか。それは、ある同僚が職場を辞めてしまったという話を聞いたからだ。
K君、という。
彼は九州から上京してきた、プロボクサー志望の男だった。おれと同い年で、おれと同じ日に同じ部署で働き始めた。身長もおれと同じくらい(180ちょっと)で、一緒にベルトコンベアーに立っていると、ある社員から「ツインタワー」なんて呼ばれたことも思い出す。
彼は寡黙で、用件がない限り自分からは口を開かず、何かを話しても一度に5秒以上は語らなかった。誰かと雑談している姿など見たこともない。でも、高圧的な雰囲気も人を寄せ付けないオーラも無く、ただ、口下手で照れ屋なのが彼の表情からよく伝わってきた。
おれは、そんなK君が好きだった。直接言葉を交わす機会はそこまで多くなかったけど、好意の深さに言葉の数など関係ないことが、彼と接していて実感できた。仕事場で一日8時間顔を合わせている赤の他人よりも、月に1度しか会えない恋人とのほうが、一緒に時間を過ごしていて遥かに歓びを体感できるのと同じだ。先輩の饒舌な自慢話は来世にまで退屈を残しそうなくらいつまらなく鬱陶しいのに、K君の、低い声からもごもごと発せられる冗談はとても楽しい。
そんなK君を、自分の所属する劇団の公演に誘った。昨年の12月だった。
「えっ、いいんですか、僕なんかが見に行っても」と、やや過剰な謙遜こそあったが、彼は二つ返事でOKしてくれた。おれは嬉しかった。
そして彼は、約束通り公演に来てくれた(若干遅刻してきたけど)。終演後はおれに特段話しかけることもなく軽い会釈と挨拶だけで足早に帰っていったが、後日のLINEで「カワイさんの夢を追ってる姿を見て僕も云々……」といったメッセージをくれた。ちょっと違うんだけどな、とも思ったけど、彼らしい素朴な言葉で綴られた言葉だった。
工場の同僚たちでおれの公演に来てくれたのは、K君だけだ。というか、おれが公演に誘ったのが、K君だけだった。できるだけたくさんのお客さんに来て欲しかったうちの劇団の主宰やメンバーたちには申し訳なかったけれど、おれは、誘いたい人しか誘いたくなかった。なんというか、ややホモセクシュアルっぽい表現になるけど、彼には、おれの一部を差し出せる、ある種の信頼性があった。なぜかと問われても、うまく言い表せない。ただ、なんとなくそう感じただけだ。だからこそ彼は、いい友達になれると思っていた。そのうち食事にでも誘おうかとも思っていた。
でも、そんなK君は、もう、いない。
理由はわからない。ある同僚に聞くところによると、何日か前から音信不通になっていたのだという。まあ、深入りした詮索をしなければ、ごくありふれた『バックレ』ということになるのだろう。彼のバックレに関して特に言うべきことはない。彼の中で静かに沸上がっていた不満や不安がある日突然溢れかえってしまったのかもしれないし、実は彼はおれが思うよりずっといい加減で無責任な人間で、ただ単に仕事に飽きてスタコラと去って行っただけなのかもしれない。要は、真面目過ぎたか、不真面目だったかのどちらかなのだ。でも、おれにとってそんなことはあまりにも些末だ。
重要なのは、彼がある日突然去ってしまったという、残酷なまでに揺るがない事実だけだ。
約3年前、「大好きだよ」と告げて、忽然とおれの前から去ってしまった女の子がいた。おれは彼女のことが好きだった。
またか、と、おれは思う。
もともと友人が少ないおれにとって、無防備で向かい合える人というのは本当に貴重な存在だ。たしかに、共有してきた時間の密度や幸福感、胸に刺す痛みと悲しみという点では、彼は彼女に遠く及ばない。それでも、利害、損得、魂胆抜きで、素直に「好き」と言える(言えそうだった)相手であることには、K君も彼女も変わらなかった。
大げさか? 大げさだろう。大げさに決まっている。自分でもよく分かっている。連絡も接触も、しようと思えばいとも容易い。でも、そんな気にはなれない。「思う」までがあまりにも遠い。0と1の距離。
どうしておれは、何かが自分から離れそうになっていく時、手を伸ばして引き留めないのだろう。拒絶が怖いのか、それとも本当は、友情や愛ではなく、喪失を欲しがっているのか。心の穴こそが自身のパーソナリティーの根幹を成すのだと、思いたがっているのだろうか。
だとしたら、おれはさぞかしロクでもない人生を送ることになるのだろう。何かを失う度に、いや、失う前から、孤独のポーズだけは一丁前に取ってみせて、内心では、つまらないナルシシズムと一緒にほくそえんでいる一生。安酒を出すバーで、いかにもかまって欲しそうに何もないところを見つめている。そうして歳を重ねていく。本当にくだらない。
K君が失踪したと知ったその日、おれは社員に無断で帰宅した。無断で帰宅したからといって、特段何かをするわけでもない。いつものように、窮屈な電車で退屈な本を読み、家に帰れば、酒を飲みながら何かを書く。ただ、それだけだ。今日と明日は同じ日で、区別なんかつかない。
ごくありふれた一日の、ごくありふれたバックレ。
今日もアルコールが話し相手。
もう一度BUDDHA BRANDに出会えたら
BUDDHA BRANDの『人間発電所』を聴く度に「ああ、もう一度初めて聴いてみたいなあ」という思いに駆られる。
初めて出会ったのは、確か19歳の頃だった。当時おれが知っていた日本語ラップアーティストといえばRHYMESTERやキングギドラやKICK THE CAN CREWやスチャダラパーくらいで、日本語ラップという音楽そのものも「どれだけ日本語で面白く韻を踏めるか」といった切り口でしか楽しんでいなかった。
そんな水を殆んど吸っていないスポンジだったおれの耳に、ある日突然ブッダの『人間発電所』はやってきた。
奇曲。怪曲。珍曲。狂曲。当時はどんな言葉に落とし込もうと試みたのだろうか。とにかく、どの表現をとっても、この音楽のコアを真芯で捉えることが出来ない。妙な温かみとノスタルジーを感じさせるトラックに、日本語とも英語とも言い表しがたい迷路のような言語表現。どれだけリリックに意識を凝らしてみても、ネクストバッターズサークルに控えているワードが読めない。次の歌詞を待つことなどナンセンスだと嘲笑われているようだった。一言一句1センテンス全てが不意討ちだった。そして何よりも、本当に何によりも、カッコいいことこの上ない。
そんなふうに、あらゆる解釈を許さないまま『人間発電所』は、おれの脳の言語中枢に一撃を食らわせ、あろうことかどっかりと居座るようになった。それからおれは食指を動かして、ソッコーでアルバムを聴き、リリックを覚え、カラオケで歌い、ブッダ以外の日本語ラップへも興味を伸ばしていった。
今にして思えば、音楽に限らず小説や映画でも、「触れた時点での受け手の解釈を越えた作品」というのは、その受け手の感性に大きな影響を与えるのだろう。作品の表現が、実際はテキトーに言葉やイメージを並べただけの粗野なツギハギだったとしても、受け手がのちに「ああ、こういうことだったのか」とか「なるほど、こんなやり方もアリなのか」といった気付き(あるいは勘違い)を得られれば、自らの感受性の硬直を解し、次世代の表現への種になるのだと思う。
なんだか急に話が大きくなったような気もするが、言い換えれば、音楽好き、映画好き、小説好きといったあらゆる「◯◯好き」を自負している人ほど、己の解釈の外にいる「何だかよく分からないけど凄そうなもの」と出会ってしまった時、それを受け止める寛容性と感受性を大切に育てたほうがいいのではないか、と言いたかった。これは、自戒でもある。
ともかく、アレコレ書いたが、今のおれが『人間発電所』及びブッダの音楽を理解したかといえば全くそんなことはない(リリックやトラックの部分的元ネタを知れたとしても)。むしろ理解出来ていないからこそ、意味不明で解釈の範疇を越えたこの音楽に対する気付き(勘違い)のチャンスを、いつまでも掴もうとしていられるのだと思っている。
それにしても、また『人間発電所』と出会って、あの頃の衝撃をそのままに感じ取りたい。まあ、初めては一度しかないからこそ価値があるわけで。何にしても。
物語にしたかった昨日たち
ビールを飲んでいたら突然回文を作ってみたい欲求に駆られ、引き出しから汚いメモ帳を取り出した。ページを開くと、警備員時代に書き記したアレコレがミミズの字で残されており、つい目に留まってしまった。引っ越しのための荷物整理をしていたら、長らく存在を忘れていた古いアルバムを見つけ眺めてしまった時みたいに。
かつて、夜勤の施設警備のバイトをしていた時期があった。
都内一等地の高級マンションと下町地区の知的障害者支援施設が主な現場だったのだが、それぞれにユニークな事件(迷い猫の捕獲とか、入寮者の脱走とか)はあれど、基本的にはあくびさえも枯渇するくらいに暇な仕事だった。
そんな日々だったので、勤務中は大抵、読書、居眠り、ゲーム、動画視聴、ネットサーフィン、筋トレ、つまみ食い、散歩……と、夜勤のため人間と遭遇することがほぼ皆無なのをいいことに、結構大胆にサボりに興じた。こんなに遊んでてても給料もらえるなんて、我ながらまことにオイシイ日々だったと思う(但しごく限定的な文脈でなら)。
とはいえ、施設内には生意気にも監視カメラが多数設置されており、その中で上記のサボりを敢行するにはどうしても相応のリスクが生じた。
では、リスクを極力回避し、且つ有意義に時間を浪費できる(有意義な浪費とは?)サボりは何なのかと、無い頭を捻ってみたところ、必然的に行き着いた答えが「手書きで何かを記入する」行為であった。つまり、広義における日記というわけだ。
これなら、警備書類や報告書を書くのと遠目では違いが分からないので、監視カメラ下でも堂々と行うことができる。
書くこと自体は何ら苦ではないし飽きない性分だ。レポート用紙やメモ帳を引っ張り出して、ぼんやり考えたことをささっと書きなぐったり、昨晩見た夢をなるべく仔細に文章化してみたり、ペン字の練習をしたり、般若心経を写経してみたり、心底(本当に心底)つまらない短編小説を書いてみたりと、それなりに楽しい時間を過ごしていたと思う。
やっぱり、人間に退屈は欠かせない。
そして今、ちょっとした雑誌くらいの厚さになった当時の雑文たちを読み返してみると、卒業アルバムの文集を眺めてるような気分になる。
批評的な目で読めば文章として限りなくクソである一方、なんとなく、過去の自分からのメッセージとして感ぜられる気もした。パラパラと紙をめくって「へえそうなんだ、知らねえけど」とか「いや、それはおかしいぜ」とか「相変わらずキモいな」とかいって冷笑するのはまあまあ面白い。
対話、とまで大仰な意味付けはしないが、過去の自分の断片がデータではなく実体として手元にあると、何となく大切にしたいと思える。大切にすべき価値など無くとも。
過去は、永遠に滑稽かつ頓馬で、いつ振り返ってみても悔恨とイフで満ちている。起きてしまったことを悔み、起きたかもしれなかったことを何度も練習する。ユーミンは「過ぎてゆくきのうを物語に変える」と歌っていた。
もしかしたらおれは、物語が欲しかったのかもしれない。
そうして、自分で自分の物語を笑ってなんかみせる。誰かに笑われるのが怖いから。
過去とする死、記すとこか。
(かことするししるすとこか)
お粗末。